江藤新平とはー民撰議院設立の建白書・佐賀の乱


江藤新平

江藤新平

 

えとうしんぺい

1834年~1874年

 

 

教科書では、板垣退助とともに、民撰議院設立の建白書を提出した人物として登場します。

 

江藤新平は、佐賀の藩士で、学生時代は成績優秀な人物でした。その後脱藩し京都で活動しました。

脱藩の罪で謹慎処分となりますが、王政復古の大号令により、新政府が誕生すると再び京都で活動の場を得ました。

新政府軍対旧幕府軍の戊辰戦争では、軍の司令官として活躍しました。彰義隊(しょうぎたい)との戦いでも活躍しています。

また、東京遷都(とうきょうせんと)を主張した人物としても知られています。

 

その後は、初代司法卿(しほうきょう)となり、司法制度を整備しました。

早くから三権分立を唱えていますが、このときは受け入れられませんでした。

朝鮮の鎖国政策を武力で開こうとする征韓論を、西郷隆盛板垣退助らと主張しますが、実現せず下野しました。

さらに板垣退助、後藤象二郎副島種臣(そえじまたねおみ)らと民撰議院設立の建白書を提出、その後佐賀に帰りました。

 

佐賀に戻ると、征韓党のリーダーに擁立され、士族反乱のひとつ、佐賀の乱が起きました。

これに対し、征韓論に反対で、事あるごとに江藤と対立していた大久保利通は自ら総帥となり、佐賀討伐を始めました。

激戦となりますが、政府軍が勝利し、江藤は征韓党を解散し、逃亡しました。

同じく征韓論を唱えた鹿児島にいた西郷隆盛に助けを求めますが、このとき西郷は賛同しませんでした。

そして指名手配の写真が出回っていた江藤は間もなく、捕らえられました。

なお、この手配写真を使うことは江藤自らが確立したもので、自身が考えた仕組みによって捕まってしまいました。

しかも江藤新平が、日本において手配写真で初めて捕まった人物になってしまいました。

その後、裁判にかけられ、江藤のかつての部下だった男から死刑を宣告されています。

処刑された首は写真にとられ、全国的に流れることになりました。今でも江藤のさらし首は、ネットで調べると出てきます。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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