石田三成とはー五奉行の一人


石田三成

石田三成

 

いしだみつなり

1560年~1600年

 

 

教科書では、豊臣政権を守ろうと、徳川家康に対して兵を挙げたとあります。

 

石田三成豊臣秀吉の部下で、五奉行の一人として、豊臣政権の政治の中心人物として活躍しました。

秀吉にまだこどもだった三成が、3杯のお茶を違う形で出した『三献茶』というエピソードが有名です。

これが三成と秀吉との出会いとされています。ただし史実ではないと言われています。

文禄の役では、朝鮮出兵の総奉行を務めますが、このときの三成の行動に同じく秀吉の部下だった福島正則らが反発します。

秀吉死後、この福島正則らと対立することとなり、五大老筆頭の徳川家康は、福島正則らに近づき、味方にしています。

 

秀吉の子・豊臣秀頼のもり役で、五大老の前田利家が死ぬと、福島正則らが三成の屋敷を襲撃する事件がおきました。

この事件は家康が仲裁しますが、この事件により三成は、五奉行を辞め、自分の城である佐和山城に帰りました。

その後、家康はさらに勢力を伸ばし、五大老の一人、上杉景勝と対立、上杉家は家康に対して、兵を挙げました。

そして家康が上杉討伐に向かうすきを狙って、三成も家康に対して、兵を挙げました。

しかし、その後の関ヶ原の戦いで敗れ、逃げている途中につかまり、大阪に送られました。

関ヶ原の戦いをおこした首謀者の一人として、市内を引き回しされた上、六条河原で斬首されました。

 

石田三成は、小説・ドラマなど数多くの作品に登場しています。

2017年に映画化された司馬遼太郎原作の『関ケ原』では、主人公の一人として、岡田准一が演じています。

戦争が下手だったり、関ヶ原の戦いで妻子を人質に取ったりとマイナスイメージで描かれることも多いです。

しかしこれは実際に三成が指揮したわけではなく、史実ではないことも多いです。

五奉行の中ではもっとも有名ですが、実際は五奉行の3番手くらいで、あまり力は持っていなかったとも考えられています。

それなのに上司にあたる五大老の毛利輝元や上杉景勝に代わって、関ヶ原の戦いの責任を取った悲運の武将とも言えます。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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