関ヶ原の戦いをわかりやすくー徳川家康VS毛利輝元・石田三成


関ヶ原の戦い

 

せきがはらのたたかい

安土桃山時代

1600年

 

 

関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉死後に起こった日本を東西に分けた戦いで、天下分け目の戦いとも言われています。

戦いの原因は、慶長の役・文禄の役での豊臣家臣内での対立が元になっており、秀吉死後、この対立が表面化してきます。

秀吉死後の政治は五大老五奉行の話し合いの元に行われるはずでしたが、五大老の筆頭・徳川家康はこれを無視し始めます。

五大老の№2前田利家存命中は何とか抑えられましたが、利家死後、家康の行動と豊臣家臣の対立は抗争へと発展していきます。

 

東軍の中心は徳川家康で、秀吉の部下だった加藤清正福島正則黒田長政らも東軍についています。

西軍の中心は五奉行の石田三成でしたが、光成は大きな力を持っていなかったため、総大将は五大老の毛利輝元でした。

他の五大老も宇喜多秀家上杉景勝は西軍、前田利家の息子・前田利長は前田家を守るため家康に従いました。

豊臣家はあくまで部下同士の戦いということで、どちらにもついていません。

 

1600年9月15日午前8時ごろ、濃霧の中戦闘は開始されました。

西軍のほうが兵数が多く、先に陣をとっていたのも西軍だったため、西軍が有利な状況で戦いは始まりました。

しかし西軍総大将の軍である毛利軍は動きを見せませんでした。毛利軍の中には家康に通じている者もいたようです。

また小早川秀秋の裏切りにより、西軍は総崩れとなり、東軍勝利で終わりました。

なおこの戦いは関ケ原での戦いにとどまらず、全国各地で行われています。

 

西軍の中心だった石田三成、小西行長らはこの戦いを引き起こした首謀者として市中引き回しの上、斬首されました。

西軍の総大将・毛利輝元は戦闘に参加していなかったこともあり、毛利家は領地をを減らされる処分となりました。

上杉家も120万石が30万石に、宇喜多秀家は領土はすべて没収の上、島流しとなっています。

またこのとき豊臣家も多くの領地を戦いに勝利した大名に分け与えることとなり、大きく領土を減らしています。

これにより、徳川家が大きく力を伸ばし、江戸幕府を開くことになります。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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