楠木正成とはー鎌倉幕府を滅亡させたBIG3の一人


楠木正成

楠木正成

 

くすのきまさしげ

1294年~1336年

教科書は太字ではない

 

中学の教科書では、後醍醐天皇の討幕を助けた新しく成長した武士として、有力御家人の足利尊氏とともに登場します。

 

楠木正成は、建武の新政を行った後醍醐天皇が信頼をした人物で、足利尊氏の離反後も後醍醐天皇を支えました。

後醍醐天皇は正中の変、元弘の変と2度、鎌倉幕府を倒そうとしています。

その2度目の元弘の変で、楠木正成は後醍醐天皇に呼応して、兵を挙げています。

河内の赤坂城の戦いで幕府軍と衝突、一度敗れますが、奪い返し、和泉や河内を制圧、勢力を拡大させます。

次の金剛山の千早城(ちはやじょう)の戦いで、幕府軍の大軍と衝突します。

このとき様々な計を用いたことが知られています。よって軍師のようなイメージのある武将です。

その間に足利尊氏が六波羅探題を、新田義貞が鎌倉攻撃、これによって鎌倉幕府は滅亡します。

 

これによって後醍醐天皇の建武の新政時には、重要なポジションを与えられ、多くの土地を得ました。

しかし足利尊氏が建武の新政から離反、これに対し楠木正成は中心となって京都を守り、勝利しています。

ただ楠木正成は人望のある足利尊氏を評価しており、足利尊氏との和睦を朝廷に提案し、謹慎させられてしまいました。

その後、後醍醐天皇の南朝側は新田義貞を中心に、足利尊氏の北朝側と戦いますが、状況は好ましくありませんでした。

後醍醐天皇は楠木正成を呼び戻し、新田義貞とともに足利尊氏と対立させました。

そして、新田義貞・楠木正成連合軍は、足利尊氏と摂津湊川(みなとがわ)で激突します(湊川の戦い)。

敗れた楠木正成は自害しました。

 

明治時代になり、後醍醐天皇の南朝が正統とされたため、楠木正成は尊王思想を持った英雄として見られるようになります。

鎌倉時代~室町時代のことは『増鏡(ますかがみ)』『太平記』『梅松論(ばいしょうろん)』などに書かれています。

1991年にはNHK大河ドラマ『太平記』も放送され、楠木正成、足利尊氏、新田義貞を中心にこの時代を知ることができます。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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