北条泰時とはーおばは北条政子の3代執権


北条泰時

北条泰時

 

ほうじょうやすとき

1183年~1242年

 

 

教科書では、評定と呼ばれる会議を設けてこれを制度化し、1232年に御成敗式目を定めた人物として紹介されています。

 

北条泰時は、初代執権北条時政の孫で、北条氏による執権政治を確立させた鎌倉幕府の3代執権です。

人間的にも優れた人物として評価されることが多く、エピソードも数多く残されています。ただし、実話でないものもあります。

承久の乱では、幕府軍の総大将としておじの北条時房とともに、後鳥羽上皇の軍を破っています。

このときおじの北条時房とともに、朝廷の監視機関として新しく設置された初代六波羅探題となっています。

 

父である2代執権北条義時の急死により、おばの北条政子が長男の北条泰時を3代執権に就任させました。

その後北条政子も亡くなり、北条泰時は源氏や北条氏個人による独裁的な政治からの脱却をはかります。

まず、執権の補佐役として連署(れんしょ)を新設、公的な文書には、執権と連署の二人の名前を必要としました。

合議制を取り入れ、その中心の役職は評定衆と呼ばれました。

北条氏、大江氏、清原氏などから11人の重臣が任命されました。

鎌倉幕府の決定は、執権・連署・評定衆によって決められ、その会議を評定(ひょうじょう)といいます。

 

さらに日本最初の武家のきまり(武家法)である、御成敗式目を定めました。

1232年、貞永元年に定められたことから、貞永式目とも言います。

御成敗式目は、長きにわたり武士の法律の見本とされました。

51か条からなり、武士の社会での慣習や、源頼朝時代の先例(右大将家之例)を基準としました。

御成敗式目の精神・目的を京都にいる弟・北条重時に送った手紙が存在し、これは「泰時消息文」と言われています。

また、このとき長雨や大風雨などによる凶作になり、京都では道端で餓死する人がでてきました(寛喜の大飢饉)。

こうした社会不安も、御成敗式目を定めた理由であると考えられています。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

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