大坂冬の陣をわかりやすくー徳川家康VS豊臣秀頼・真田幸村


大阪冬の陣

 

おおさかふゆのじん

江戸時代

1614年

 

大坂冬の陣は、豊臣家が江戸幕府と戦った戦いで、のちの大坂夏の陣とともに、大坂の陣(役)と呼ばれています。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、主君であった豊臣家を上回る力を持つようになり、江戸幕府を開きます。

徳川家と豊臣家の関係は、加藤清正豊臣秀吉直属の武将や、前田利長が生きている間は、何とか保たれていました。

しかし彼らが相次いで亡くなったことにより、両者の関係は悪化していきました。

 

このような中、秀吉の子・豊臣秀頼は、秀吉の建てた方広寺を再建、その鐘に「国家安康」「君臣豊楽」と刻みます。

これを江戸幕府は家康の名前が切られていると、文句を言い、この方広寺鐘銘問題をきっかけに戦争へと発展していきます。

 

豊臣家は、かつて豊臣家と関係の深かった大名に声を掛けますが、だれも味方しようとはしませんでした。

集まったのは徳川家によって取り潰され恨みを持っていたり、この戦いで名を上げようとする浪人たちでした。

主力は明石全登、後藤基次(又兵衛)、真田信繫(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永のいわゆる五人衆でした。

大名ではありませんでしたが、みな戦争で名を知られた勇将たちで大阪城の士気も上がります。

豊臣軍は約10万人の浪人が籠城(ろうじょう)、これを徳川軍は約20万の軍で包囲、徳川家康・秀忠親子も出陣しています。

 

豊臣軍は真田信繁(幸村)が真田丸で徳川軍を撃退するなど、善戦します。

真田信繁(幸村)の大坂夏の陣での戦いは、のちに語り継がれ、真田幸村は戦国最強の武将とも言われました。

そして互いに兵糧不足などになり、和議の方向に話は進んでいきますが、お互い折り合いがつきませんでした。

徳川家康は大阪城へ大砲による一斉攻撃を開始、これによって疲弊した豊臣軍は和議を受け入れます。

豊臣秀頼の身の安全と豊臣家の本領安堵と引き換えに、豊臣軍側は大阪城の堀を埋めることとなりました。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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