大阪城とはー豊臣秀吉の居城


大阪城

大阪城

 

おおさかじょう

安土桃山時代

 

 

教科書では、豊臣秀吉が築いた壮大な城として記載されています。

 

大阪城は、織田信長の後継者争いに勝利した豊臣秀吉が命じ、黒田孝高(官兵衛)が中心となってつくられた城です。

戦国時代には、蓮如(れんにょ)が再建した石山本願寺があり、寺ですが塀や堀があり、石山本願寺城ともいわれました。

これを織田信長が攻め(石山本願寺攻め)、11年におよぶ石山戦争の直後、焼失しました。

大阪城はその跡地につくられた城で、天守はうるしと金とでかざられていました。黄金の茶室があったともいわれています。

当時日本一の大きな城で、難攻不落の名城といわれました。秀吉死後も、豊臣氏の居城として使われました。

豊臣氏と徳川氏が戦った大阪冬の陣では、真田信繫(幸村)が出城(真田丸)をつくったことでも、知られています。

この大阪冬の陣の講和条件として、二の丸、三の丸は取り壊しとなり、次の大阪夏の陣で落城しました。

 

その後徳川氏が再築し、西日本支配の拠点の城として、使用されました。

築城の責任者は、数多くの築城をしたことで知られる大名・藤堂高虎(とうどうたかとら)です。

このとき、豊臣氏の大阪城に盛り土をしてつくられたため、豊臣氏の大阪城に関するものは地中に埋められました。

よって今も見ることができる大阪城の跡は、徳川氏がつくった大阪城のものになります。

その後天守は落雷により焼失しますが、城は存続し続け、幕末には、徳川最後の将軍・徳川慶喜が居城としていました。

しかし、新政府軍と旧幕府軍による鳥羽・伏見の戦いに敗れ、大阪城は新政府軍のものとなります。

その混乱の中、大阪城のほとんどが焼失してしまいました。

 

昭和に入り、豊臣氏と徳川氏それぞれの要素をもった天守が、復興されています。

さらに平成に入って大改修が行われ、地震に強い構造にするとともに、つくりも豊臣氏の大阪城に寄せました。

まわりには、大阪城公園、大阪城ホールもあり、現在も、大阪の象徴的建物として存在しています。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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