島原・天草一揆をわかりやすくー松平信綱VS天草四郎時貞


島原・天草一揆

 

しまばら・あまくさいっき

江戸時代

1637年~1638年

 

島原・天草一揆は、江戸時代初期に起こったキリシタン農民の反乱で、島原の乱としても知られています。

島原は有馬晴信、天草は小西行長がかつて支配していた領土で、この2人は有名なキリシタン大名でした。

このことからこの地域は、キリシタンの多い地域でしたが、関ヶ原の戦い後、島原は松倉氏、天草は寺沢氏が支配します。

松倉氏、寺沢氏は圧政を行い、農民を苦しめました。これにキリスト教弾圧が加わり、反乱へとつながっていきます。

 

反乱の総大将は、天草四郎時貞(益田時貞)で、小西行長の遺臣の子であったとされています。

生まれながらカリスマ性があったといわれ、様々な奇跡を起こしたともいわれています。豊臣秀頼の子という説まであります。

ただ反乱時10代半ばであったため、実際に指揮をとっていたのは浪人たちで、天草四郎は利用されていたと考えられています。

 

反乱をおこした農民たちは、有馬氏の居城であった原城跡に籠城、その数は3万8000人ほどいたといわれています。

これに対し江戸幕府は京都所司代・板倉勝重の三男、板倉重昌指揮のもと、反乱鎮圧を行います。

しかし板倉重昌率いる幕府軍は苦戦、事態を重く見た幕府は、老中・松平信綱を派遣します。

このことを知りあせった板倉重昌は、総攻撃をかけますが失敗、重昌も戦死しました。

 

松平信綱の到着にともない、九州勢も援軍に駆け付け、幕府軍は12万人以上の兵力となりました。

半年に及ぶ兵糧攻めのあと、総攻撃が行われ、原城は落城、天草四郎は戦死しました。

一揆軍は皆殺しとなり、天草四郎は首を出島などにさらされることとなりました。

こののち、幕府は禁教令を強化、キリシタンは表面的には棄教を装う隠れキリシタンとなっていきます。

なお、島原藩藩主の松倉勝家は斬首、天草を治めていた唐津藩藩主の寺沢堅高は領地没収後、自害しました。

鎮圧を指揮した松平信綱は、その後も老中首座として、幕府の中心人物として活躍しています。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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