高野長英とはーシーボルト事件・戊戌夢物語・蛮社の獄


高野長英

高野長英

 

たかのちょうえい

1804年~1850年

 

 

教科書では、外国船の打ちはらいを批判する書物を書いたため、幕府によって厳しい処罰を受けた人物として登場します。

 

高野長英は若いころ、ドイツ人医師のシーボルトが開いた医学塾・鳴滝塾(なるたきじゅく)で医学・蘭学を学んでいます。

シーボルトは帰国の際、日本地図を入手し、持ち出そうとしたことが発覚し、国外追放されています。

当時日本地図を国外に持ち出すことは、禁止されていました。

このシーボルト事件は、処刑者も出る事件となりましたが、このときは高野長英はうまく逃れています。

 

その後は自身で江戸で蘭学塾を開き、三河田原藩の渡辺崋山ともこのとき知り合っています。

そして知識人の集まりである尚歯会(しょうしかい)に、崋山らと参加しています。

尚歯とは、敬老の意味ですが、表向きの名前で、実際は政治・経済などについて議論をする集まりでした。

1837年、モリソン号事件がおき、これに対する幕府の対応を批判した『戊戌夢物語』を書きました。

戊戌(ぼじゅつ)とは、そのときの年の名前です。

夢物語とは、モリソン号打ち払いの無謀さを、夢の中での知識人の討議の形で批判しているところからきています。

当初は近い人だけに見せるためのものでしたが、写本が広く出回ることになり、このことが蛮社の獄へとつながっていきます。

 

こうして高野長英は、幕府批判を理由に捕らえられ、永牢(えいろう)の処分を受けます。

永牢とは江戸時代の刑罰のひとつで、死ぬまで永久に牢屋にいること、つまり今でいう終身刑です。

しかし入獄中に火災が起き、獄から逃亡しています。これは長英が放火をさせたと言われています。

逃亡後は、兵学書や蘭学書の翻訳などをして、生活していました。

このとき、顔がばれないように、硝酸で顔を焼いていたと言われています。脱獄から約6年後、江戸で捕まり亡くなりました。

死因は捕まる際、何度も殴られたことによるものとも、捕まる際、自殺したとも言われています。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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