徳川家茂がしたことー歴史で中学生が覚えておきたい徳川将軍6


徳川家茂

徳川家茂

 

とくがわいえもち

第14代将軍

1846年~1866年

 

教科書では、幕府と朝廷との結びつきを強める公武合体策として、天皇の妹を家茂の夫人としたことが紹介されています。

また、幕府が長州を攻めた際、家茂の死が理由で停戦になったことの記述があります。

2回名前が出てきましたが、結婚も政略結婚であったため、家茂自身が何かをした記述はありません。

 

徳川家茂(いえもち)は徳川慶福(よしとみ)とも出てきます。

もとは御三家の一つ紀州徳川家の人で、第11代将軍徳川家斉の孫にあたります。

第13代将軍徳川家定(いえさだ)には、後継ぎがいませんでした。

これによりこれまた御三家の一つ、水戸徳川家の一橋慶喜(後の第15代将軍徳川慶喜)との将軍継嗣問題に巻き込まれます。

この問題は、大老井伊直弼(いいなおすけ)が徳川慶福を推したことで、慶福を推す南紀派(なんきは)が勝利します。

その直後、徳川家定が亡くなったため、13歳で将軍になりました。

このとき名前を徳川慶福から、徳川家茂に改名しています。

 

井伊直弼が暗殺された桜田門外の変があったのは、徳川家茂が将軍のときになります。

第3代将軍徳川家光以来となる京への上洛を行い、義理の兄にあたる孝明天皇に攘夷(じょうい)の実行を宣言します。

第二次長州征伐の際、大阪城で病気になり、21歳で亡くなりました。

 

甘いものが大好きで死因は虫歯によるものとされています。

義母の天璋院篤姫(あつひめ・2008年大河ドラマ主人公)は、慶喜派により暗殺されたと疑っていたと言われています。

公武合体のための政略結婚ではありましたが、妻の和宮(かずのみや)とは夫婦仲がとてもよかったと言われています。

また短命ではありますが、名君だったとも言われ、勝海舟は早死にしたことを嘆いています。

幕末の将軍なので、幕末を描いたドラマに名前はよく登場します。

 

 

歴史で中学生が覚えておきたい徳川将軍一覧

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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