吉野作造をわかりやすく-民本主義・大正デモクラシー


吉野作造

吉野作造

 

よしのさくぞう

1878年~1933年

 

 

教科書では、民本主義を主張した人物として登場しますが、吉野作造の名前は太字ではありません。

吉野作造は、高校卒業後、東京帝国大学に進学し、さらに大学院へと進み、東大の教授となっています。

中国で、袁世凱(えんせいがい・中国の大総統)の息子の家庭教師をした経験もあります。

雑誌『中央公論』の編集長に頼まれ、いくつかの論説を掲載しました。

そして、1916年に「憲政の本義を説いて其有終の美を済(な)すの途を論ず」を発表し、民本主義を提唱しました。

そして『中央公論』はこの時期、大正デモクラシーの論壇の中心となっています。

 

民本主義とは、天皇主権のもと、民衆の政治参加を主張したものです。

主権が国民にある民主主義の考えとは異なるため、民本主義といいます。

具体的には、政策の決定は民衆の意向を反映したものでなければならないとし、政党内閣制と普通選挙の実現を目指しました。

なお、発表時には、吉野作造は、民主主義という危険な学説とは異なるものとして、民本主義という言葉を生み出しています。

しかし晩年は、民本主義ではなく、民主主義、デモクラシーと表現しています。

 

1918年には、自由主義者や新しい発想を持った学者らによる組織「黎明会(れいめいかい)」を結成しています。

また、東大生による思想運動団体「新人会」を結成、普通選挙運動や、労働運動に参加しました。

労働組合運動の中心となった鈴木文治(ぶんじ)設立の「友愛会」の支援もしています。

 

朝鮮や中国の民族主義にも理解を示した人物としても知られ、朝鮮独立運動や、孫文の辛亥革命を支持しています。

1923年には、関東大震災がおき、東京・横浜を中心に多くの被害が出ました。

このとき、朝鮮人が暴動を起こしたといううわさが流れ、これを住民が組織した自警団が殺害するという事件が起きています。

この朝鮮人殺害を吉野作造は、批判する論文も発表しています。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

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