投稿者: w.sanbongi
ランバ・ラルをわかりやすくージオン公国軍大尉・青い巨星
ランバ・ラル
ジオン公国
ランバ・ラルは、ジオン公国軍宇宙攻撃軍司令ドズル・ザビ中将の部下で、階級は大尉です。
ジオン共和国を創ったジオン・ズム・ダイクンの側近、ジンバ・ラルの息子です。
自らの機体を青く塗装していたため、『青い巨星』と呼ばれました。青色の機体は、ザクⅠ、グフが確認されています。
グフが青色なのは、もともとランバ・ラルが量産化前に乗っていた機体で、それを継承したためと考えられています。
ダイクン存命のころは、ジンバ・ラルの嫡男として、ジオン共和国においてドズルに次ぐ地位を得ていました。
しかしダイクン死後、ザビ家との政争に敗れたラル家は没落、父・ジンバ・ラルも殺されました。
ダイクンの遺児・キャスバル(のちのシャア)とアルテイシア(のちのセイラ)はランバ・ラルによって養育されました。
その後は酒浸りでしたが、その能力を高く買っていたドズルに登用され、『黒い三連星』とモビルスーツの開発に関わります。
史上初のモビルスーツ同士の戦闘にも指揮官として参加するなど、活躍を見せました。
しかしドズルが命じた「コロニー落とし」に反対したため、再び表舞台から姿を消しています。
ザビ家の末弟・ガルマ・ザビが戦死すると、そのかたき討ちとしてドズルにホワイトベース追討の命令を受けます。
このときは自らの部隊であるランバ・ラル隊を率いており、ゲリラ戦を得意としました。
部隊のメンバー、クラウレ・ハモンは内縁の妻で、戦争時も常にランバ・ラルのそばにいて彼を支えました。
副隊長のクランプは、ランバ・ラル、ハモンを盛り立てました。他にアコース、コズンなどがいます。
自らグフに乗り込み、ガンダムのアムロ・レイと戦いますが、そのモビルスーツの性能の差を前にこれに敗れています。
キシリア・ザビ派のマ・クベによりモビルスーツの補充も絶たれたため、白兵戦でホワイトベースに挑みました。
最後はホワイトベースから手りゅう弾を抱いたまま飛び降りて、死亡しました。
スポンサーリンク
大坂冬の陣をわかりやすくー徳川家康VS豊臣秀頼・真田幸村
2019年6月30日
歴史で知っておきたい戦争
No Comments
w.sanbongi
大阪冬の陣
おおさかふゆのじん
江戸時代
1614年
大坂冬の陣は、豊臣家が江戸幕府と戦った戦いで、のちの大坂夏の陣とともに、大坂の陣(役)と呼ばれています。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、主君であった豊臣家を上回る力を持つようになり、江戸幕府を開きます。
徳川家と豊臣家の関係は、加藤清正ら豊臣秀吉直属の武将や、前田利長が生きている間は、何とか保たれていました。
しかし彼らが相次いで亡くなったことにより、両者の関係は悪化していきました。
このような中、秀吉の子・豊臣秀頼は、秀吉の建てた方広寺を再建、その鐘に「国家安康」「君臣豊楽」と刻みます。
これを江戸幕府は家康の名前が切られていると、文句を言い、この方広寺鐘銘問題をきっかけに戦争へと発展していきます。
豊臣家は、かつて豊臣家と関係の深かった大名に声を掛けますが、だれも味方しようとはしませんでした。
集まったのは徳川家によって取り潰され恨みを持っていたり、この戦いで名を上げようとする浪人たちでした。
主力は明石全登、後藤基次(又兵衛)、真田信繫(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永のいわゆる五人衆でした。
大名ではありませんでしたが、みな戦争で名を知られた勇将たちで大阪城の士気も上がります。
豊臣軍は約10万人の浪人が籠城(ろうじょう)、これを徳川軍は約20万の軍で包囲、徳川家康・秀忠親子も出陣しています。
豊臣軍は真田信繁(幸村)が真田丸で徳川軍を撃退するなど、善戦します。
真田信繁(幸村)の大坂夏の陣での戦いは、のちに語り継がれ、真田幸村は戦国最強の武将とも言われました。
そして互いに兵糧不足などになり、和議の方向に話は進んでいきますが、お互い折り合いがつきませんでした。
徳川家康は大阪城へ大砲による一斉攻撃を開始、これによって疲弊した豊臣軍は和議を受け入れます。
豊臣秀頼の身の安全と豊臣家の本領安堵と引き換えに、豊臣軍側は大阪城の堀を埋めることとなりました。
スポンサーリンク