投稿者: w.sanbongi
シャア・アズナブル(ジオン公国)をわかりやすくージオン公国軍大佐・赤い彗星
シャア・アズナブル
ジオン公国
シャア・アズナブルは、ジオン軍大佐でルウム戦役において1人で5隻の戦艦を沈めたことから、『赤い彗星』と呼ばれています。
やけどを隠すため、常に仮面をつけています。ただこれは自分の素性を隠すためにつけていたと言われています。
自分の機体は常に赤色に塗装しています。このことが『赤い彗星』と呼ばれるゆえんです。
赤い機体(シャア専用)は、ザクⅠ、ザクⅡ、ズゴック、ゲルググが確認されています。
ニュータイプの先駆け的存在ですが、ララァ・スンが連邦軍のアムロ・レイに倒された際、その能力が覚醒したと考えられます。
なおこのララァがアムロに倒された出来事が、この後のアムロとの因縁や、のちのシャアの人生に大きく影響を与えます。
本名はキャスバル・レム・ダイクンと言い、ジオン共和国を創ったジオン・ズム・ダイクンの実子です。
しかしダイクン死後はダイクンを暗殺し、その後継となったと言われるザビ家から逃れるため、地球に逃亡しています。
ザビ家へ復讐するため、キャスバルはシャア・アズナブルを名乗り、ジオンの士官学校に入学、次席で卒業しています。
本当は首席で卒業でしたが、友人のザビ家の末弟・ガルマ・ザビに主席を譲ったと考えられています。
その後ザビ家の三男・ドズル・ザビの宇宙攻撃軍に入隊、ジオン軍のエースパイロットとして活躍します。
そして地球に降り、ガルマとともに連邦軍の新型艦・ホワイトベースを撃墜しようとします。
しかしこの戦いでガルマが戦死したため、その責任をとって左遷されました。
その後ザビ家の長女・キシリア・ザビに取り立てられ、大佐へ昇進、再びホワイトベースと激闘を繰り広げます。
ア・バオア・クーの戦いでは、ニュータイプ用モビルスーツ・ジオングに乗り込み、ガンダムと戦い相打ちとなっています。
ガンダムのパイロット・アムロとは生身で斬り合いになり、額(ひたい)に一生残る傷をつけられています。
最後はキシリアをバズーカで射殺し、ザビ家への復習を終え、生死不明となりました。
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関ヶ原の戦いをわかりやすくー徳川家康VS毛利輝元・石田三成
2019年6月17日
歴史で知っておきたい戦争
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w.sanbongi
関ヶ原の戦い
せきがはらのたたかい
安土桃山時代
1600年
関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉死後に起こった日本を東西に分けた戦いで、天下分け目の戦いとも言われています。
戦いの原因は、慶長の役・文禄の役での豊臣家臣内での対立が元になっており、秀吉死後、この対立が表面化してきます。
秀吉死後の政治は五大老五奉行の話し合いの元に行われるはずでしたが、五大老の筆頭・徳川家康はこれを無視し始めます。
五大老の№2前田利家存命中は何とか抑えられましたが、利家死後、家康の行動と豊臣家臣の対立は抗争へと発展していきます。
東軍の中心は徳川家康で、秀吉の部下だった加藤清正、福島正則、黒田長政らも東軍についています。
西軍の中心は五奉行の石田三成でしたが、光成は大きな力を持っていなかったため、総大将は五大老の毛利輝元でした。
他の五大老も宇喜多秀家、上杉景勝は西軍、前田利家の息子・前田利長は前田家を守るため家康に従いました。
豊臣家はあくまで部下同士の戦いということで、どちらにもついていません。
1600年9月15日午前8時ごろ、濃霧の中戦闘は開始されました。
西軍のほうが兵数が多く、先に陣をとっていたのも西軍だったため、西軍が有利な状況で戦いは始まりました。
しかし西軍総大将の軍である毛利軍は動きを見せませんでした。毛利軍の中には家康に通じている者もいたようです。
また小早川秀秋の裏切りにより、西軍は総崩れとなり、東軍勝利で終わりました。
なおこの戦いは関ケ原での戦いにとどまらず、全国各地で行われています。
西軍の中心だった石田三成、小西行長らはこの戦いを引き起こした首謀者として市中引き回しの上、斬首されました。
西軍の総大将・毛利輝元は戦闘に参加していなかったこともあり、毛利家は領地をを減らされる処分となりました。
上杉家も120万石が30万石に、宇喜多秀家は領土はすべて没収の上、島流しとなっています。
またこのとき豊臣家も多くの領地を戦いに勝利した大名に分け与えることとなり、大きく領土を減らしています。
これにより、徳川家が大きく力を伸ばし、江戸幕府を開くことになります。
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