文永の役についてわかりやすくーフビライVS北条時宗


文永の役

文永の役

 

ぶんえいのえき

鎌倉時代

1274年

 

文永の役は、文永11年に起こったモンゴル軍の日本襲来のことで、のちの弘安の役と合わせて、元寇と呼ばれます。

この頃のモンゴル帝国の皇帝は、第5代のフビライ・ハンで、初代皇帝チンギス・ハンの孫にあたります。

1271年には、大都(今の北京)を都としてを建国し中国を支配、元の初代皇帝として、日本に服従をせまりました。

 

しかし日本はこれを拒否、鎌倉幕府8代執権・北条時宗を中心に、元軍(モンゴル軍)の侵入を阻止しようとします。

時宗は、九州の御家人に沿岸の警備を命じ、これは異国警固番役(いこくけいごばんやく)と言われました。

元軍(モンゴル軍)は、モンゴルに服従していた朝鮮の高麗の軍とともに、まず対馬・壱岐へ侵攻します。

日本はこれに敗れ、多くの死者を出しました。

 

これにより日本側は、大宰府に集結し、博多湾(福岡市)に上陸した元軍(モンゴル軍)と戦争に突入します。

モンゴル軍の集団戦法や、「てつはう」と呼ばれた火薬に苦戦しますが、日本の武士が奮戦、これを撃退しました。

さらにこのときモンゴル軍は、暴風雨に見舞われ、撤退をしました。

この暴風雨に関しては、暴風雨自体をモンゴル軍撤退の原因とするもの、撤退は日本軍の奮戦によるものとで意見が分かれます。

なお、元の歴史書には、文永の役に関する記述はほとんどなく、対馬・壱岐での勝利のところしか記載されていません。

 

この戦い後、幕府は再度のモンゴル軍の襲来に備えるため、博多湾沿岸の石塁(せきるい)を築きます。

石塁は石築地(いしついじ)とも呼ばれ、石や砂、土を積んで作られた防壁のことで、長さは20㎞にわたったと言われています。

またこの戦いにより、鎌倉幕府の西国における支配力も高まることとなり、得宗が実権を握るようになります(得宗専制政治)。

得宗徳宗とも)とは、北条氏の嫡流の家のことで、北条義時・泰時・経時・時頼・時宗・貞時・高時の7人を指します。

太平洋戦争時には、日本を外国からの襲来から救った英雄として、北条時宗は評されるようになります。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

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