カテゴリー: 社会
徳川家斉がしたことー歴史で中学生が覚えておきたい徳川将軍5
徳川家斉
とくがわいえなり
第11代将軍
1773年~1841年
教科書では、化政文化のときの将軍として名前が登場します。
江戸城で相撲観戦をしたため、当時大相撲(おおずもう)が人気になったことが記載されています。
徳川家斉(いえなり)は、もとは御三卿(ごさんきょう)の一つ、一橋家の人物です。
第10代将軍徳川家治(いえはる)の息子が亡くなったことにより、跡取りがいなくなったため、家治の養子になりました。
その後家治も亡くなったため、15歳で将軍になります。
御三卿とは、第8代将軍徳川吉宗が作ったもので、田安家、一橋家、清水家を指します。
将軍家、御三家すべてに将軍の後継ぎとなる人物がいない場合は、この御三卿から将軍候補を出していました。
50年という長期政権だったこともあり、その間にはいろいろな出来事がおこっています。
田沼意次(おきつぐ)の代わりに老中の筆頭として松平定信(さだのぶ)を任命し、寛政の改革を行わせました。
しかし寛政の改革は抑圧(よくあつ)が強く、しだいに徳川家斉と松平定信は対立、結果、解任しています。
将軍を息子の徳川家慶(いえよし)に譲った後も、大御所(おおごしょ)として実権を握ります。
この時代を、大御所時代といいます。
年号では文化・文政時代に当たるため、このころの文化をまとめて化政文化といいます。
晩年には、天保の飢饉(てんぽうのききん)とそれに伴う大塩平八郎の乱も起こっています。
69歳で亡くなり、その政治は老中水野忠邦(ただくに)によって否定され、天保の改革へとつながっていきます。
徳川家斉は、子供が53人もいたことで知られており、ネットで調べるとこれに関連する記事が多数出てきます。
子供が53人いたということは、奥さんもたくさんいたということになります。
松平定信が大奥の経費を大幅削減したことも、解任理由と言われています。
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推古天皇とはー歴史で中学生が覚えておきたい天皇・上皇1
2017年10月11日
社会, 覚えておきたい天皇・上皇
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w.sanbongi
推古天皇
すいこてんのう
554年~628年
女性天皇
教科書には、蘇我氏などの有力豪族が大王にしようとする争いを和らげるために、即位した天皇として紹介されています。
女性の天皇で、聖徳太子を摂政に任じたことが書かれています。
推古天皇はもとは敏達天皇(びだちてんのう)の后で、女性で初めて天皇になった人物です。
摂政になった聖徳太子(しょうとくたいし)とはおば、おいの関係になります。
このとき多くの天皇候補の人物が次々と亡くなり、推古天皇の子供(男子)も早くして亡くなっています。
そして当時の天皇だった崇峻天皇(すしゅんてんのう)を、推古天皇のおじである蘇我馬子(そがのうまこ)が暗殺します。
その結果、推古天皇が天皇として即位することになりました。
中学では、聖徳太子が摂政の時の天皇とぐらいしか学ばないので、何もしていない天皇と思われるかもしれません。
しかし後に出てくる摂政とは違い、この当時の摂政は本当に天皇のサポート的な役割でした。
推古天皇自身も、政治的能力をしっかり持ち合わせた人物だったと言われています。推古天皇の治世は推古朝といいます。
推古朝を中心とする時代の中国・朝鮮の影響を受けた文化を、飛鳥文化といいます。
また、『日本書紀』には、推古天皇は美人だったと書かれています。
聖徳太子と蘇我馬子との関係がうまく保てたのも、推古天皇がいたからこそです。
このころ覚える、冠位十二階の制度や十七条の憲法、遣隋使、法隆寺の建立はすべて聖徳太子だけによるものではありません。
推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の3人の力で、推古朝は作られました。
次の天皇になるはずだった聖徳太子こと厩戸皇子(うまやどおうじ)は、先に亡くなってしまいました。
推古天皇は亡くなるまで天皇として存在し、後継者問題を残したままこの世を去りました。
その結果、蘇我氏の独裁政治を招き、後の大化の改新へとつながっていきます。
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