カテゴリー: 歴史で太字ではないけど知っておきたい用語
北朝とはー歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい用語
北朝
ほくちょう
室町時代
中学の教科書では、南北朝時代の足利尊氏が新しく天皇を立てた京都方の呼び方として、紹介されています。
北朝の最初の天皇は光明天皇(こうみょう)ですが、その兄の光厳上皇(こうげん)が院政を行いました。
南北朝の分裂以前に天皇家は、持明院統と大覚寺統に分かれており、対立を続けていました。
後嵯峨上皇(ごさが)の子の、後深草天皇(ごふかくさ)の子孫が持明院統(じみょういんとう)になります。
同じく後嵯峨天皇の子の、亀山天皇(かめやま)の子孫が大覚寺統(だいかくじとう)になります。
(このことは教科書に載っている天皇の系図でも、確認できます)。
この問題は両統が交代で皇位につくこと(両統迭立・りょうとうてつりつ)でいちおう解決しますが、対立自体は続きました。
その後、大覚寺統の後醍醐天皇(ごだいご)が建武の新政を行いますが、2年ほどでくずれます。
足利尊氏はこれに対し、京都に持明院統の光明天皇を立て、北朝ができあがりました。
北朝では、足利尊氏の有力武将・高師直(こうのもろなお)と尊氏の弟・足利直義(ただよし)が対立しました。
これを観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と言います。このとき足利尊氏は、南朝と和睦を行い、北朝は解体されています。
しかし、南朝はさらに京都・鎌倉を攻めて、光厳上皇・光明天皇らを連れていってしまいました。
このため南北朝の統一はなくなり、北朝は光厳上皇の第2皇子を後光厳天皇(ごこうげん)として、即位させました。
この出来事は、持明院統内での対立も生み出すこととなってしまいました。
そして、第3代将軍・足利義満のとき、北朝は後光厳天皇の孫である後小松天皇(ごこまつ)の代に、南北朝は合体します。
南朝の天皇・後亀山天皇(ごかめやま)は廃され、後小松天皇が統一後も天皇となりました。
なお明治時代には南朝が正統とされたため、統一後も天皇となった後小松天皇以外は、歴代の天皇には含まれていません。
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南朝とはー歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい用語
2018年5月11日
社会, 歴史で太字ではないけど知っておきたい用語
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w.sanbongi
南朝
なんちょう
室町時代
教科書では、後醍醐天皇が吉野(奈良県)に逃れてできた吉野方の呼び方として、登場しています。
南朝の最初の天皇は大覚寺統の後醍醐天皇で、京都から吉野(よしの)へ皇居を移してできました。北朝が持明院統です。
南北朝の分裂以前に天皇家は、持明院統と大覚寺統に分かれており、対立を続けていました。
後嵯峨上皇(ごさが)の子の、後深草天皇(ごふかくさ)の子孫が持明院統(じみょういんとう)になります。
同じく後嵯峨天皇の子の、亀山天皇の子孫が大覚寺統(だいかくじとう)になります。教科書の天皇の系図でも、確認できます。
この問題は両統が交代で皇位につくこと(両統迭立・りょうとうてつりつ)でいちおう解決しますが、対立自体は続きました。
鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇側についた新田義貞(にったよしさだ)は、越前で戦死しました。
後醍醐天皇が亡くなった後は、後村上天皇が即位、北畠親房(きたばたけちかふさ)が中心となって南朝を支えました。
北朝では、足利尊氏の部将・高師直と尊氏の弟・足利直義が対立(観応の擾乱)、南朝は足利直義を味方にしました。
これに対し、足利尊氏は和睦、南北は統一されるはずでしたが、南朝はさらに京都・鎌倉を攻めます。
天皇の証(あかし)である神器を奪い、北朝の皇族を連れ去りました。これによって統一はなくなります。
後村上天皇が亡くなると、長慶天皇(ちょうけい)が即位します。長慶天皇の存在は1900年代に入って、初めて確認されました。
九州地方では、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねよししんのう)が一時期、九州全土を制圧しました。
しかし、九州探題となった今川貞世(さだよ・了俊とも)に敗れ、衰えていきます。
長慶天皇は、弟の後亀山天皇(ごかめやま)に天皇の位を譲りました。
この後亀山天皇が、第3代将軍・足利義満が提案した両統迭立の条件などを受け入れ、南北朝は合体しました。
北朝の後小松天皇が統一後の天皇となりますが、次はその皇子が即位し両統迭立の約束は破られ、後亀山天皇は吉野に逃げます。
そののち、南朝を再びつくろうとする後南朝(ごなんちょう)による抵抗へと続きました。
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