南朝とはー歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい用語


南朝

南朝

 

なんちょう

室町時代

 

 

教科書では、後醍醐天皇が吉野(奈良県)に逃れてできた吉野方の呼び方として、登場しています。

 

南朝の最初の天皇は大覚寺統の後醍醐天皇で、京都から吉野(よしの)へ皇居を移してできました。北朝が持明院統です。

南北朝の分裂以前に天皇家は、持明院統と大覚寺統に分かれており、対立を続けていました。

後嵯峨上皇(ごさが)の子の、後深草天皇(ごふかくさ)の子孫が持明院統(じみょういんとう)になります。

同じく後嵯峨天皇の子の、亀山天皇の子孫が大覚寺統(だいかくじとう)になります。教科書の天皇の系図でも、確認できます。

この問題は両統が交代で皇位につくこと(両統迭立・りょうとうてつりつ)でいちおう解決しますが、対立自体は続きました。

 

鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇側についた新田義貞(にったよしさだ)は、越前で戦死しました。

後醍醐天皇が亡くなった後は、後村上天皇が即位、北畠親房(きたばたけちかふさ)が中心となって南朝を支えました。

北朝では、足利尊氏の部将・高師直と尊氏の弟・足利直義が対立(観応の擾乱)、南朝は足利直義を味方にしました。

これに対し、足利尊氏は和睦、南北は統一されるはずでしたが、南朝はさらに京都・鎌倉を攻めます。

天皇の証(あかし)である神器を奪い、北朝の皇族を連れ去りました。これによって統一はなくなります。

 

後村上天皇が亡くなると、長慶天皇(ちょうけい)が即位します。長慶天皇の存在は1900年代に入って、初めて確認されました。

九州地方では、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねよししんのう)が一時期、九州全土を制圧しました。

しかし、九州探題となった今川貞世(さだよ・了俊とも)に敗れ、衰えていきます。

長慶天皇は、弟の後亀山天皇(ごかめやま)に天皇の位を譲りました。

この後亀山天皇が、第3代将軍・足利義満が提案した両統迭立の条件などを受け入れ、南北朝は合体しました。

北朝の後小松天皇が統一後の天皇となりますが、次はその皇子が即位し両統迭立の約束は破られ、後亀山天皇は吉野に逃げます。

そののち、南朝を再びつくろうとする後南朝(ごなんちょう)による抵抗へと続きました。

 

室町時代ー歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい用語

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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