延暦寺とはー歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい用語


延暦寺

延暦寺

 

えんんりゃくじ

平安時代

 

 

教科書では、9世紀初め、天台宗を伝えた最澄が、比叡山に延暦寺を建てたとあります。

 

延暦寺は、滋賀県大津市比叡山(ひえいざん)にあります。

最澄(伝教大師)が草庵を建て、一乗止観院を創立、中国・唐で学んだ後、ここで天台宗を開宗しました。

最澄はさらに比叡山に大乗戒壇(大乗仏教独自の戒を授ける壇)を設立しようとします。

しかし、旧仏教から反対されました。

その設置は最澄死後に許可され、これにより延暦寺と呼ばれるようになりました。

それ以後、仏教教学の中心として、南都(興福寺)と並び、北嶺(ほくれい)と称されます。

住職は天台座主(ざす)と呼ばれ、天台宗のお寺を総監する立場にありました。

 

その後は、第3世天台座主・円仁(えんじん)や第5世天台座主・円珍(えんちん)によって、天台宗は大成しました。

しかし、円仁(慈覚大師)と円珍(智証大師)は仏教解釈の違いから対立します。

天台宗は円仁の山門派(さんもんは)と、円珍の寺門派(じもんは)の2派にわかれました。

これによって僧兵と呼ばれる武装化する僧が誕生することになります。特に延暦寺の僧兵は山法師といいます。

また、鎌倉仏教の開祖、法然親鸞栄西道元日蓮はみな延暦寺で学んでいます。

他にも、『往生要集』の源信(恵心僧都)や、『愚管抄(ぐかんしょう)』の慈円などもこの延暦寺で学んでいます。

 

その後、延暦寺の武力はどんどん強くなっていき、独立国のような状態になっていきました。

戦国時代には織田信長と対立、姉川の戦いで敗れた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立てこもり、信長と戦っています。

これがきっかけで、織田信長は延暦寺焼き討ちをし、寺社勢力に大きな打撃を与えました。

後に豊臣秀吉や徳川家によって再建され、現在では、ユネスコ世界文化遺産に登録されています。

 

※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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