後白河天皇とはー中学生が覚えておきたい天皇・上皇9


後白河天皇

後白河天皇(後白河上皇)

 

ごしらかわてんのう

1127年~1192年

院政停止

 

教科書では、保元の乱の勝利側で、平清盛がその院政を助けた人物として登場します。

 

後白河天皇は、鳥羽上皇の第4皇子で、そのときの上皇であった崇徳上皇は兄になります。

鳥羽上皇死後、皇室の対立に加え、藤原摂関家の兄弟対立が絡んできました。

こうして、後白河天皇派対崇徳上皇派の内乱・保元の乱が起きます。

後白河天皇派には、藤原忠通(ただみち)、平清盛源義朝(源頼朝の父)が加わり、これに勝利します。

崇徳上皇は讃岐に流され、後白河天皇は二条天皇に皇位を譲り、後白河上皇として院政を行いました。

二条天皇は後白河上皇の院政をこころよく思わずに対立しますが、23歳で亡くなります。

後白河上皇は平清盛とともに、自分の子供で当時8歳の高倉天皇を即位させました。

高倉天皇の母親は、平清盛の妻の妹になります。

 

当初、平清盛とはときに対立しながらも、お互い認め合っていっしょに政治を行っていきました。

多くの貴族が反対した平清盛が進める日宋貿易も、後白河上皇はこれを評価し、支えています。

熱心な仏教信者で、出家して後白河法皇になりました。東大寺の大仏再建にも力を注いでいます。

しかし、後白河法皇の妻で平清盛の妻の妹が亡くなったことにより、平氏との関係が悪化していきます。

さらに平清盛は後白河法皇の近臣たちが平氏打倒の計画(鹿ケ谷の陰謀)があることを知り、彼らを殺害します。

これによってさらに対立が深まり、後白河法皇は平清盛により鳥羽殿に幽閉され、院政は停止しました。

 

その後、高倉上皇、平清盛が亡くなったことで、院政を再開、源頼朝に平氏を打倒させます。

源頼朝は弟の源義経と仲が悪くなり、源義経は源頼朝を打倒することを、後白河法皇に迫りこれを認めさせました。

鎌倉との関係に緊張が走りましたが、後に源頼朝と対面し、そのわだかまりも解けます。66歳で亡くなりました。

 

 

中学生が覚えておきたい天皇・上皇一覧

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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