加藤高明をわかりやすくー普通選挙法・治安維持法・憲政の常道


加藤高明

加藤高明

 

かとうたかあき

1860年~1926年

教科書では、普通選挙法と治安維持法を制定した内閣として登場します。

 

加藤高明は、愛知県尾張の生まれで、東京大学法学部を首席で卒業後、三菱に入社しました。

そして三菱を発展させ、三菱財閥の基礎を確立した実業家・岩崎弥太郎の長女と結婚しています。

その後大隈重信の秘書などを務め、第4次伊藤内閣、第1次西園寺内閣、第3次桂内閣で外相を歴任しています。

 

3度の首相経験を持つ桂太郎が結成した立憲同志会に参加、桂太郎の死後は、トップである総裁を引き継いでいます。

第2次大隅内閣では再び外相となり、中国に対し二十一か条の要求を行っています。

一方立憲同志会は、中正会、公友倶楽部と合同で、憲政会(後の立憲民政党)を成立させ、加藤高明はその総裁となりました。

 

加藤高明の憲政会と高橋是清立憲政友会犬養毅革新倶楽部(後に立憲政友会に吸収)は護憲三派と呼ばれました。

1924年、この護憲三派が、この時の首相・清浦奎吾(きようらけいご)の清浦内閣打倒をめざして運動を起こします。

これを第二次護憲運動といい、普通選挙の実施、貴族院改革、行政整理などを掲げた護憲三派が総選挙で勝利します。

憲政会が第一党となったため、加藤高明は東京大学出身者では初の内閣総理大臣となりました。

 

そして加藤内閣護憲三派内閣)は、納税資格制限を撤廃し、25歳以上の男子に選挙権を与える普通選挙法を成立させました。

一方、普通選挙法と日ソ国交樹立による共産主義活動の活発化を見越して、治安維持法も同じ年に成立させています。

またこの加藤内閣から衆議院で多数の議席を占める政党が内閣を組織することになり、これを「憲政の常道」といいます。

ただし第1党が総辞職後、第2党に交代する形で行われたため、議院内閣制が制度化されたわけではありません。

つまりこのときは憲政会と立憲政友会が交互に政権を担当しました。

しかし憲政会と立憲政友会で内紛が起き、護憲三派は分裂し、加藤の憲政会による単独内閣となりました。

その翌年、加藤高明は肺炎を起こし、それが原因で病死しました。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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