弘安の役をわかりやすくー第2回 フビライVS北条時宗


弘安の役

弘安の役

 

こうあんのえき

鎌倉時代

1281年

 

弘安の役は、弘安4年に起こったモンゴル軍の日本襲来のことで、前の文永の役と合わせて、元寇と呼ばれます。

 

文永の役後、の皇帝・フビライは、日本の再度侵攻と、日本の服従を考えます。

フビライはこのことを伝えるため、日本に使節団を派遣しますが、執権・北条時宗は彼らを斬首しました。

当初はすぐに日本を侵攻する予定でしたが、元は南宋を滅ぼし、中国での戦争がようやくおさまったところでした。

よって、しばらく延期となり、3年後再び使節団を派遣しています。このときも日本は使節団を斬首しました。

 

こうして弘安4年、元・高麗両軍を主とした東路軍と、元南宋の兵を主とした江南軍とに分かれて二度目の侵攻をしました。

このときの艦隊数は東路軍900艘、江南軍3500艘で、世界史上最も大きなものだったと言われています。

東路軍は、対馬・壱岐を占領し、博多湾から九州への上陸を試みますが、石塁にはばまれたため、志賀島を占領しました。

日本軍は、海路と陸路から志賀島の元軍を総攻撃し、これを退け、元軍は壱岐へ後退し、江南軍の到着を待ちました。

しかし、江南軍は当初予定していたルートを変更したため、壱岐には現れず、東路軍と日本軍での戦闘となります。

日本軍はこれに勝利し、東路軍は、平戸島へ向かっていた江南軍と合流します。

このとき台風の被害に見舞われ、元軍の船は大きな被害をうけました。

元軍は撤退を決め、日本軍は鷹島辺りで残った敵をせん滅させ、結果、日本軍の勝利に終わりました。

 

元寇において活躍した人物として有名なのが、竹崎季長(すえなが)です。

文永の役では、戦争での活躍が認められなかったため、当時の幕府の有力者・安達泰盛に直訴し、土地を与えられています。

弘安の役でも同様に活躍し、このときは多くの恩賞を与えられています。

彼が描かせた『蒙古襲来絵巻』は、元寇を知るための大切な史料となっています。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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