小林一茶とはー江戸を代表する俳人


小林一茶

小林一茶

 

こばやしいっさ

1763年~1827年

 

 

小林一茶は、教科書では、俳諧(はいかい)で、農民の素朴な感情を読んだ人物として紹介されています。

松尾芭蕉(まつおばしょう)、与謝蕪村(よさぶそん)に並ぶ江戸を代表する俳人ですが、ひとりだけ太字ではありません。

通称・弥太郎といい、一茶は俳号(ペンネーム・芸名みたいなもの)です。

家庭的に不幸なエピソードが多く、そのことが俳句の作風にも表れています。

 

小さいころに実の母を亡くし、義理の母とは不仲であったため、若くして一茶は江戸に出されました。

その義理の母とは、大人になっても父親の遺産をめぐって争っています。

50代で年の離れた女性と結婚しますが、その奥さんとその間に生まれた4人の子供はみんな亡くなってしましました。

そののち、2回再婚しますが、家が火事になり、病気も患って、亡くなりました。

 

小林一茶は、生涯で約21,000句の俳句を残しています。松尾芭蕉は約1,000句、与謝蕪村は約3,000句です。

擬声語や擬態語、擬音語が多く用いられているのが、一茶の作風の特徴になります。

他と比べて独特なスタイルの俳句ですが、季語ナシなど俳句のルールを破ったような型破りな作品は少ないです。

代表作品には『おらが春』があります。これは、1819年に小林一茶が読んだ歌を、死後、別の人が編集したものです。

 

俳人として小林一茶は、全国的に有名になりました。しかしその作風からか、一茶の後を継ぐような人物は現れませんでした。

よって、そののちの時代では、松尾芭蕉や与謝蕪村のように、知名度の高い俳人ではありませんでした。

明治時代になると、正岡子規が新聞で紹介したことで、俳人として再評価されるようになりました。

正岡子規は小林一茶のその独立された作風を、絶賛しています。

そして、大正から昭和にかけて次のような句が教科書に乗るようになり、さらにその名を知られるようになりました。

「雀(スズメ)の子 そこのけそこのけ お馬が通る」「やせ蛙 負けるな一茶 是(これ)にあり」。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

東三河の方で、教室に興味のある方はこちらのお問い合わせフォームより、お問い合わせください。塾ではない形で指導を希望される方も、一度ご相談ください。あなたから新しい指導の形が見つかるかもしれません。

 

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