松平慶永とはー松平春嶽・政事総裁職・幕末の四賢侯


松平慶永

松平慶永

 

まつだいらよしなが

1828年~1890年

演:津田寛治

 

松平慶永は、越前福井藩の藩主で、松平春嶽(しゅんがく)の名前でよく知られています。

薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内豊信(容堂)、宇和島藩主・伊達宗城とともに幕末の四賢侯と呼ばれています。

 

越前福井藩は、親藩で、徳川家康の次男で、第2代将軍・徳川秀忠の兄・結城(松平)秀康が初代藩主となります。

結城秀康(ゆうきひでやす)は、もともと徳川家康(当時は松平家康)のあとを継ぐ位置にいました。

しかし、家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いの後、秀吉の養子となったため、後継者から外れました。

その後、秀吉に実子ができた際、再度養子に出され、結城秀康となりました。

そして関ヶ原の戦いの後、越前に領地を与えられ、元の名字の松平に戻しました。

 

松平慶永はもともとは御三家の次の三家である、御三卿(ごさんきょう)のひとつ田安家(たやすけ)の出身です。

越前福井藩の藩主が亡くなり、後継ぎもいなかったことから養子として入り、藩主となりました。

藩主としては、橋本左内(はしもとさない)や由利公正(ゆりきみまさ)らとともに、幕政改革を行っています。

由利公正は、のちに五箇条の御誓文の原案を考えた人物として、知られています。

第13代将軍・徳川家定将軍継嗣問題では、徳川斉昭島津斉彬とともに一橋慶喜を推します(一橋派)。

しかしこれに敗れ、さらに勝手に日米修好通商条約を結んだ大老・井伊直弼に抗議、逆に謹慎させられました(安政の大獄)。

 

井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後、政界に復帰し、文久の改革の中心人物のひとりとなっています。

このとき新しく設置された3つの要職のひとつ、政事総裁職についています。

しかし、3つの要職のひとつ・将軍後見職についた一橋慶喜と対立し、一度越前福井に帰っています。

その後、再度復帰し、土佐藩が建白した大政奉還を支持しています。

維新後は、新しくできた三職のひとつ議定(ぎじょう)に選ばれています。その後も重職を歴任し、61歳で亡くなりました。

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

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