松前藩をわかりやすくー蠣崎氏・蝦夷地・シャクシャイン


松前藩

松前藩

 

まつまえはん

江戸時代

 

 

教科書では、蝦夷地(えぞち)の南部に領地を持つ松前藩は、幕府からアイヌの人々との交易の独占を許されたとあります。

 

松前藩は、蝦夷地を支配していた蠣崎氏(かきざきし)が徳川家康からその支配を認められ、形成されました。

蠣崎氏は、蝦夷地の南岸に居住していた小豪族です。

蠣崎氏の客将だった武田信広がアイヌの首長・コシャマインを鎮圧し、蠣崎氏を継いで蝦夷地を支配しました。

 

蠣崎慶広(よしひろ)の代のとき、本土で大きな力を持った豊臣秀吉に従い、蝦夷島主の待遇を受けました。

秀吉が亡くなると、徳川家康に従うようになり、家康にも蝦夷地支配を認められます。

そして松前慶広と名を改め、松前氏は大名格とみなされるようになりました。

同時にアイヌとの交易の独占を許されたため、大きな利益を得ました。

ちなみに松前氏の領内では稲作ができませんでした。よって実際の石高はなく、あくまで大名格という特別な存在でした。

1669年には、アイヌの首長シャクシャインが、松前氏に反抗していますが、敗れています。

 

蝦夷地は耕地が乏しかったため、松前藩は商場(あきないば)を上級藩士に与える商場知行制をとっていました。

江戸後期には、その場所を商人に請け負わせる場所請負制としています。

ロシア人が南下し、日本との国交を求めるようになると、北辺防備のため、蝦夷地は幕府の直轄となります。

これにより一時、陸奥国に移されますが、後に復帰、松前藩が北辺の防備をすることとなりました。

これに伴い幕府の命令により、松前福山城も築城しています。

戊辰戦争の際には、仙台藩、米沢藩が主唱した反政府同盟である奥羽越列藩同盟に参加しています。

しかし、勤皇派が藩の政治を掌握したため、新政府側に寝返っています。

なお、新選組の二番隊組長で、新選組1.2の剣の使い手といわれる永倉新八は、松前藩士です。

松前藩を脱藩後、のちの新撰組局長となる近藤勇の道場の食客となっています。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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