大友宗麟とはー中学生が覚えておくべきキリシタン大名


大友宗麟

大友宗麟

 

おおともそうりん

1530年~1587年

教科書は太字ではない

 

中学の教科書では、ローマ教皇のもとへ、天正遣欧少年使節を送ったキリシタン大名の代表として登場します。

 

大友宗麟は、大友義鎮(よししげ)と言い、大友家21代当主の守護大名です。宗麟は出家後の名前です。

北九州で勢力を拡大、中国地方の毛利元就(もうりもとなり)と争うなど戦国時代を代表する戦国大名の一人でもあります。

キリスト教に関心を示し、ザビエルらに領内でもキリスト教布教を許可しました。ザビエルに実際に、会った大名でもあります。

室町幕府第13代将軍・足利義輝との関係を強化し、守護、九州探題に任じられ、一時期、九州最大の勢力となりました。

その後、息子の大友義統(よしむね)に当主の座を譲るも、政治には参加し、強い権限を持っていました。

しかし、薩摩の島津家との戦いに大敗し、さらに息子・義統との確執も生まれ、大友家は衰退していきました。

 

このころ大友宗麟は正式にキリスト教徒となり、洗礼名「フランシスコ」を名乗っています。

大友家の領土の中心・豊後府内(ぶんごふない・今の大分県)は、南蛮貿易の拠点となりました。

大友宗麟はこのとき、キリスト教の国を作ろうと考えていたと言われ、神社仏閣の破壊行為まで行っています。

1582年には、同じくキリシタン大名有馬晴信大村純忠(すみただ)と天正遣欧少年使節をローマ法王に派遣しています。

大友家代表の使節・伊東マンショ(伊東祐益・すけます)は、大友宗麟の妹の孫にあたります。

ただし天正遣欧少年使節を大友宗麟は、実際は知らなかったという説もあります。

 

九州では、島津家が徐々に力をつけていき、大友家はこれに対抗できなくなってきました。

そこで大友宗麟は当時の実力者・豊臣秀吉に援軍を求めました。

そして島津家との戦争中、病気で58歳で亡くなりました。

息子の大友義統は豊臣家の臣下となり、関ヶ原の戦いでは西軍に入り敗れるも、大友家は徳川家に召し抱えられ存続しました。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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