白河天皇とはー中学生が覚えておきたい天皇・上皇7


白河天皇

白河天皇(白河上皇)

 

しらかわてんのう

1053年~1129年

院政

 

教科書では、後三条天皇の後をついで上皇になり、摂政や関白をおさえて、院政を行った人物として紹介されています。

 

白河天皇後三条天皇の長男で、後三条天皇から譲位される形で天皇になりました。

白河天皇のきさきは藤原氏で、再び藤原氏による摂関政治が復活してしまう恐れがありました。

後三条天皇は藤原氏とは関係のない次男(白河天皇の異母弟)を皇太子にして、摂関政治の復活を防ごうとしました。

白河天皇自身も、後三条天皇同様に荘園の管理を強め、摂関政治をおさえようとしています。

 

しかし、後三条天皇が亡くなった後、白河天皇は後三条天皇の遺言をやぶり、自分の息子に天皇の位を譲ります。

堀河天皇(ほりかわ)はまだ8歳だったため、白河天皇は白河上皇として政治を行います。

これによって、藤原氏による摂関政治も復活します。

このとき白河上皇と藤原摂関家はうまくバランスを保って、政治を行っていきました。

そののち堀河天皇は成長すると、自身で政治を行いたいと望むようになりました。

当時の関白、藤原師通(もろみち)がこれを支持し、堀河天皇と藤原摂関家による政治体制になります。

このころ、仏教に信仰が深かった白河上皇は出家をし、政治から離れていました。

よって白河法皇とも呼ばれます。法皇(正式には太上法皇)とは上皇が出家した場合、そう呼ばれます。

 

しかし、藤原師通が急死し、さらに堀河天皇も亡くなってしまいます。

このとき国内に多くの問題を抱えていた状況を、その時の藤原氏では対処ができませんでした。

そして、白河上皇が再び政治を行うことになりました。

これによって白河上皇は大きな力を持つようになり、逆に藤原摂関家は大きく力を落とします。

白河上皇はその後も孫の鳥羽天皇、ひ孫の崇徳天皇の時代も院政を行い、77歳で亡くなりました。

 

 

中学生が覚えておきたい天皇・上皇一覧

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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