下地中分とはー歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい用語


下地中分

下地中分

 

したじちゅうぶん

鎌倉時代

 

 

教科書では、地頭が土地や農民を勝手に支配し、領主との間に争いが起こったため、土地の半分を地頭に与えたとあります。

 

地頭は、荘園や公領で土地の管理、年貢・兵粮米(兵士の食料や軍事費になる米)の徴収、治安維持するのが仕事でした。

地頭は土地を与えられたわけではなく、それぞれの土地には領主が存在します。地頭はあくまで管理が仕事になります。

そして年貢は荘園や公領の領主に納めるものでしたが、地頭によってこれが横領されるという事態がたびたび起こりました。

御成敗式目により、このような事態は主に領主が勝訴しますが、訴訟では解決しない問題ともなっていました。

この解決策として、領主は下地を2分して一方を地頭、もう一方を自らが支配することにしました。

これを、下地中分といいます。

下地(したじ)とは、農作物がとれる田畑・山林などの土地のことです。その収益は上分(じょうぶん)といいます。

2分とありますが、必ずしも均等に分けるわけではなく、割合はさまざまでした。

下地中分は、鎌倉幕府が強制的に行う場合と、当事者の話し合いで行われる場合があります。

後者は、和与中分(わよちゅうぶん)といいます。

教科書にも載っていますが、伯耆国(ほうきのくに)東郷荘にあった京都松尾神社の下地中分(和与中分)の絵図が有名です。

 

もう一つ、領主が地頭に年貢の一定額を請け負わせ、その経営を委任(いにん)、それを領主に納める制度も生まれました。

これは地頭請(じとううけ)といわれます。この言葉自体は教科書に出てきませんが、文章での説明はあります。

ただ下地中分の方が、確実に一定額の年貢が手に入る仕組みであるため、広まっていきます。

 

高校生はこの地頭請と下地中分のちがいを知っておきたいです。

この下地中分や地頭請によって、地頭の力は強まり、領主の権利を持つ地頭も現れたりしました。

こうして、領主や地頭の仕組みは崩壊していきます。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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