前九年合戦をわかりやすくー源頼義・清原氏VS安倍氏


前九年合戦

前九年合戦

 

ぜんくねんかっせん

平安時代

1051年~1062年

 

教科書では、東北地方の武士どうしの争いをきっかけにした大きな戦乱のひとつとして、書かれています。

前九年合戦は、『保元物語』『源平盛衰記』『太平記』などに出てくる名称・前九年の役でも知られています。

前九年とありますが、合戦は9年ではありません。源頼義の参加から9年だからとも言われていますが、定かではありません。

 

当時、陸奥においては、有力豪族で俘囚の長である、安倍氏が大きな力を持っていました。

俘囚(ふしゅう)とは、蝦夷の帰順同化したものです。

そして阿部氏が朝廷への貢物をしなくなったため、陸奥守・藤原登任が安倍氏を攻めますが、敗れました。

こうして代わりに源頼義が陸奥守、鎮守府将軍となり、安倍氏の長・安倍頼時(よりとき)と関係を回復させました。

 

しかし、源頼義の部下が、安倍頼時の子・安倍貞仁の夜討ちにあったという情報が流れ、関係は再び悪化しました。

こうして合戦となり、頼時は鳥海柵で戦死、その後、源頼義とその子・源義家は頼時の跡を継いだ安倍貞仁に敗れています。

これに対し、源頼義は東北の豪族・清原氏の助けを借りることで、立場を優位にしました。

その後は、源頼義側が優勢のまま、前九年合戦は終了、安倍氏は滅亡しました。

 

前九年合戦における源頼義・義家親子の活躍は、源氏が東国で勢力を確立するきっかけとなりました。

またのちには、その一族である源頼朝足利尊氏が征夷大将軍となり、それぞれ鎌倉幕府、室町幕府を開いています。

彼らが征夷大将軍になったのは、源頼義・義家が俘囚の長である安倍氏を討ったこの前九年合戦からきています。

また、前九年合戦の活躍により、清原氏は鎮守府将軍となり、奥羽で大きな力を持つようになります。

安倍頼時の娘は、清原氏にその子どもとともに引き取られ、清原氏の清原武貞と再婚しています。

このとき引き取られた子が、後の藤原清衡(きよひら)で、平泉を拠点に奥州藤原三代の栄華を開きます。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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