カテゴリー: 歴史で太字ではないけど知っておきたい人物
観阿弥・世阿弥とはー中学生がセットで覚える親子
観阿弥・世阿弥
かんあみ・ぜあみ
1333年~1384年・1363年~1443年
教科書は太字ではない
中学の教科書では、猿楽に他の芸能の要素を取り入れながら現在まで続く能として発展させ、幕府の保護も受けたとあります。
観阿弥(かんあみ)は、大和の興福寺・春日社に奉仕した4つの座の1つ結崎座(ゆうさきざ)に属していました。
4つの座は、大和四座と呼ばれます。
観世座(もと結崎座)・宝生座(もと外山座)・金剛座(もと坂戸座)・金春座(もと円満井座)を指します。
結崎座は観阿弥のもと、観世座(かんぜざ)に改称され、足利尊氏がその田楽を後援していました。
この観世座が演じる能を観世能、座頭を観世太夫(かんぜだゆう)と言います。
さらに第3代将軍・足利義満が保護し、能に田楽などの要素を取り入れ、芸術的な演芸へと完成させていきます。
なお観阿弥は鎌倉幕府の討幕で活躍した楠木正成(くすのきまさしげ)とは、おじ・おいの関係にあるという文書もあります。
世阿弥(ぜあみ)は観阿弥の息子で、12歳で父・観阿弥とともに足利義満に保護されています。
足利義満の近くにいることも許されていました。観阿弥死後は、観世座を引き継ぎ、観世太夫となりました。
しかし、第6代将軍・足利義教(よしのり)は、養子でおいの音阿弥を支援します。
世阿弥は弾圧され、仕事場を奪われていきます。
長男に観世座を譲り、世阿弥は出家しますが、長男は亡くなり(暗殺?)、世阿弥は佐渡に流されました。
観阿弥・世阿弥はそれぞれ時宗での法名・観阿弥陀仏(あみだぶつ)・世阿弥陀仏の略称です。
世阿弥は国語の古文でも出てくる『風姿花伝』(ふうしかでん・通称は『花伝書』)を書き残しています。
『風姿花伝』は能楽の芸術論で、ここで世阿弥は、父・観阿弥の芸談をもとに彼自身の体験や意見を書いています。
また観阿弥・世阿弥親子は多くの謡曲(ようきょく)を作り、今でもいくつか残っています。
謡曲とは、能の脚本のことで、神話・伝説などがもとになっています。
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雪舟とはー相国寺の僧で、水墨画の人
2018年4月18日
社会, 歴史で太字ではないけど知っておきたい人物
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w.sanbongi
雪舟
せっしゅう
1420年~1506年
教科書は太字ではない
中学の教科書では、宋や元で盛んだった水墨画が、禅宗の僧を中心に描かれたとあり、欄外で雪舟が紹介されています。
雪舟(せっしゅう)は子どもの頃、京都の相国寺(しょうこくじ)で、周文(しゅうぶん)から水墨画を学びました。
相国寺とは、第3代将軍・足利義満が建てたお寺で、京都の最高位のお寺・京都五山のひとつです。序列は第2位になります。
水墨画は炭の濃さだけで描かれる絵で、中国で成立、日本には、鎌倉時代に禅とともに伝わっています。
よってもともとは禅の精神を表すためのものでしたが、相国寺の禅僧・如拙(じょせつ)がこれに自然を書きます。
『瓢鮎図(ひょうねんず)』は山水画としての構成が見られ、如拙は日本水墨画の先駆者といわれています。
この弟子が周文で、如拙の水墨画を発展させ、そしてその弟子の雪舟が水墨画を完成させました。
雪舟は成長すると、守護大名である大内氏の保護を受け、今の山口市に職場として雲谷庵(うんこくあん)を作りました。
このころから、雪舟を名乗るようになったと言われています。
さらに大内氏の支援のもと、中国の明に行き、約2年間本場の水墨画を勉強・研究しました。
帰国後は主に雲谷庵に住みながら、各地を訪ねて日本の水墨画を完成させていきます。
晩年には天橋立(あまのはしだて)も書いています。
有名な作品として教科書にもある『秋冬山水図』(『山水長巻』とも)と『四季山水図』があります。
安土桃山時代には、狩野永徳(かのうえいとく)や狩野山楽(さんらく)らがお城のふすまや屏風に絵を書き、活躍しました。
その漢画系の一派は狩野派と呼ばれ日本絵画史上最大の画派となり、江戸時代まで約400年間活躍します。
この狩野派が雪舟を指示したことで、江戸時代に雪舟の作品は各大名などから大人気となりました。
さらにそののち、ソビエトとルーマニアでは、切手にもなっています。外国の切手になった初めての日本人になります。
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