カテゴリー: 歴史で太字ではないけど知っておきたい人物
源義朝とはー源頼朝の父で、ライバルは平清盛
源義朝
みなもとのよしとも
1123年~1160年
教科書は太字ではない
中学の教科書では、保元の乱で後白河天皇に味方して勝利するが、続く平治の乱で平清盛に敗れたとあります。
源義朝は源頼朝、源義経らの父であり、源義親(よしちか)の孫で源為義(ためよし)の子になります。
源義親は源義家の子で、反乱を起こして、殺されています。
源為義も白河上皇の信頼を得られず、源氏は衰退していました。
源義朝は、父の為義とは別に都から離れ、東国において力をつけていきました。
このことが後の源頼朝の挙兵のささえになっており、鎌倉幕府の成立につながっていきます。
都に戻った源義朝は、鳥羽上皇の近臣の家系の由良御前を妻にし、それを利用して鳥羽上皇の警護につきました。
ちなみに、この由良御前(ゆらごぜん)との間の子が、源頼朝になります。
また当時絶世の美女と言われた常盤御前(ときわごぜん)も妻にしており、その子が源義経になります。
こうして義朝は、鳥羽上皇や関白・藤原忠通(ただみち)のもと出世し、父の源為義を超える立場にまでなりました。
崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立、つまり保元の乱では、為義は崇徳上皇側につきました。
これに対し、義朝は、平清盛とともに後白河天皇側につき、ともに中心となって働きました。
結果、後白河天皇側が勝利します。
義朝は、為義の助けを求めましたが受け入れられず、自ら父を斬ったと言われています。
これによって源義朝は、出世しますが、それ以上に平清盛の出世はすさまじいものでした。
その後、後白河天皇に重用されていた藤原信頼とともに平治の乱をおこし、同様に力をもっていた藤原通憲(信西)を倒します。
しかし信西(しんぜい)に重用されていた平清盛の反撃を受け、敗北、東国へ逃亡します。
その途中、尾張で裏切りにあって暗殺されて、38歳で亡くなりました。
※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。
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源義仲とはー源頼朝のいとこ
2018年2月21日
社会, 歴史で太字ではないけど知っておきたい人物
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w.sanbongi
源義仲
みなもとのよしなか
1154年~1184年
教科書は太字ではない
中学の教科書では、諸国の武士が平氏に対抗して兵を挙げた動きの中心人物として、源頼朝とともに名前が挙げられています。
源義仲は、源義朝の弟・源義賢の子で、源頼朝とは従兄弟(いとこ)の関係になります。
木曽に住んでいたたため、木曽義仲という名前でも知られています。
後白河天皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が平家打倒の令旨(皇族が発した命令書)を発したことに応じ、挙兵しています。
北陸地方を平定していき、俱利伽羅峠の戦いで、平維盛(これもり)軍を破り、その勢いで京都に入りました。
『平家物語』ではこのとき、「朝日将軍」という称号を与えられたと記述されています。
京に入った後、義仲は武士の立場でありながら皇位継承問題に意見をしたことで、貴族たちから嫌われることになりました。
義仲はずっと木曽で育ったため、宮中のことは何も知らない、野蛮で乱暴な人物と見られていたと言われています。
また義仲は京都の治安を回復する役目にありましたが、それもできず、さらに悪化させました。
これを後白河法皇に責められ、信頼回復のため、平家討伐のため、西国へ出兵しました。
しかし、後白河法皇は源義仲に代わり、源頼朝に京都に入るよう要請しました。
頼朝とは従兄弟でしたが、かつて頼朝が破った源行家らを保護したことなどにより、もともと関係はよくありませんでした。
追い詰められた義仲は、後白河法皇を幽閉します。
これに対し、源頼朝は弟の源範頼、源義経に、義仲を討つよう命じます。
このときもはや義仲にしたがう兵は少なく、宇治川の戦いで敗北、次の栗津の戦いで敗死しました。
また源義仲というと『平家物語』に出てくる女武将・巴御前(ともえごぜん)が有名です。
2人で銅像にもなっています。
義仲の妻の一人とされていますが、載っているのは『平家物語』とその異本と言われる『源平盛衰記』のみです。
※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。
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