源義仲とはー源頼朝のいとこ


源義仲

源義仲

 

みなもとのよしなか

1154年~1184年

教科書は太字ではない

 

中学の教科書では、諸国の武士が平氏に対抗して兵を挙げた動きの中心人物として、源頼朝とともに名前が挙げられています。

 

源義仲は、源義朝の弟・源義賢の子で、源頼朝とは従兄弟(いとこ)の関係になります。

木曽に住んでいたたため、木曽義仲という名前でも知られています。

 

後白河天皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が平家打倒の令旨(皇族が発した命令書)を発したことに応じ、挙兵しています。

北陸地方を平定していき、俱利伽羅峠の戦いで、平維盛(これもり)軍を破り、その勢いで京都に入りました。

平家物語』ではこのとき、「朝日将軍」という称号を与えられたと記述されています。

京に入った後、義仲は武士の立場でありながら皇位継承問題に意見をしたことで、貴族たちから嫌われることになりました。

義仲はずっと木曽で育ったため、宮中のことは何も知らない、野蛮で乱暴な人物と見られていたと言われています。

また義仲は京都の治安を回復する役目にありましたが、それもできず、さらに悪化させました。

これを後白河法皇に責められ、信頼回復のため、平家討伐のため、西国へ出兵しました。

 

しかし、後白河法皇は源義仲に代わり、源頼朝に京都に入るよう要請しました。

頼朝とは従兄弟でしたが、かつて頼朝が破った源行家らを保護したことなどにより、もともと関係はよくありませんでした。

追い詰められた義仲は、後白河法皇を幽閉します。

これに対し、源頼朝は弟の源範頼源義経に、義仲を討つよう命じます。

このときもはや義仲にしたがう兵は少なく、宇治川の戦いで敗北、次の栗津の戦いで敗死しました。

また源義仲というと『平家物語』に出てくる女武将・巴御前(ともえごぜん)が有名です。

2人で銅像にもなっています。

義仲の妻の一人とされていますが、載っているのは『平家物語』とその異本と言われる『源平盛衰記』のみです。

 

※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。

 

スポンサーリンク

 

 

 

スポンサーリンク








プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

東三河の方で、教室に興味のある方はこちらのお問い合わせフォームより、お問い合わせください。塾ではない形で指導を希望される方も、一度ご相談ください。あなたから新しい指導の形が見つかるかもしれません。

 

友だち追加