カテゴリー: 歴史で太字ではないけど知っておきたい人物
西田幾多郎をわかりやすくー善の研究、西田哲学
西田幾多郎
にしだきたろう
1870年~1945年
教科書では、東洋と西洋の哲学を統一しようとした人物として、紹介されています。
西田幾多郎は加賀(現在の石川県)の生まれで、学生時代は自由民権運動の影響を受けます。
しかし政府は自由民権運動を弾圧、西田は薩摩出身の校長に反抗したため、退学させられています。
翌年、東京大学へ入学し、哲学を学んだ後、故郷に戻り、教師の仕事をしていました。
このころから禅に興味を持つようになり、実際お寺に出向いて、修行もしています。
その後は京都大学の教授となり、18年間生徒に哲学を指導しました。幾多郎に教わった哲学者の学派は、京都学派と呼ばれます。
1911年には、日本最初の独創的哲学書といわれる『善の研究』を発表します。
これには西田哲学といわれるものの基礎が書かれています。
それまでの日本での哲学とは、西洋の哲学を学び、それをまねすることでした。
しかし西田幾多郎は、自身の禅の経験を基礎に、西洋哲学に東洋の思想を加えました。
そのため西田哲学は宗教的な要素が強く、実践的な哲学ではないと批判されることもありました。
また東洋独自の哲学を主張することが、大東亜共栄圏の考えにも結ぶつくこととなります。
太平洋戦争時にも、その考えが利用されました。ただし東条英機は西田哲学が難解で、理解できなかったとも言われています。
太平洋戦争による敗戦後、京都学派はいったん没落していきました。
劇作家・評論家で『出家とその弟子』を書いた倉田百三(くらたひゃくぞう)は、西田哲学に強く影響を受けています。
百三の『愛と認識との出発』は、幾多郎の『善の研究』と並び、当時の学生に大きな影響を与えています。
哲学はその学問自体、説明が難しく、文献に頼らないスタンスだった西田哲学は、さらに説明が難解です。
西田幾多郎に興味を持った方は、関連する本がいくつも出版されているので、そちらを参考にしていただければと思います。
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志賀直哉をわかりやすくー白樺派・和解・暗夜行路
2018年12月12日
歴史で太字ではないけど知っておきたい人物
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w.sanbongi
志賀直哉
しがなおや
1883年~1971年
志賀直哉は、白樺派(しらかばは)を代表する小説家で、「小説の神様」とも言われる人物です。
白樺派とは、雑誌『白樺』に作品を載せた人たちのことで、自然主義に対抗して人道主義を主張しています。
他には武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や、有島武郎(ありしまたけお)などがいます。
また同時期には、耽美派(たんびは)もあり、芸術至上主義を主張、永井荷風、谷崎潤一郎などがその代表格です。
志賀直哉は若いころ内村鑑三の講義を聞き感銘を受け、実際、内村鑑三のもとで7年間学んでいます。
このとき足尾銅山鉱毒事件を批判する内村鑑三の演説に衝撃を受けます。
しかし祖父が足尾銅山の経営に関わっていたため、鑑三の行動を反対した父親との関係が悪化していきます。
学生時代は2度落第し、結果2歳年下の武者小路実篤と同級生となり、その後も行動をともにするようになっていきます。
東大に入り、夏目漱石の講義を受けたりなどしますが、のちに中退しています。
そして『白樺』を創刊、この創刊には民芸運動を行った柳宗悦(やなぎむねよし)も参加していました。
その後、小説家になることを反対した父親とさらに対立、家出もしています。
志賀直哉は武者小路実篤の従妹(いとこ)と結婚していますが、これも父親は反対し、結婚式にも出ませんでした。
最終的にこの父親とは和解することになるのですが、この経験をもとに書かれたのが、代表作『和解』になります。
なお志賀直哉の小説はその大半が短編ですが、唯一の長編が志賀作品で最も有名な『暗夜行路(あんやこうろ)』になります。
志賀直哉は気分転換(?)のため、何度も引越しをしていますが、奈良には自らが設計した邸宅をつくっています。
この邸宅には『蟹工船(かにこうせん)』で知られる小林多喜二らが訪れていたそうです。
戦争中は作家活動をしていませんでしたが、終戦後に再開し、1971年に亡くなりました。
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