カテゴリー: 歴史で太字ではないけど知っておきたい人物
美濃部達吉をわかりやすくー天皇機関説
美濃部達吉
みのべたつきち
1873年~1948年
教科書では、天皇機関説を主張して政党内閣制に理論的な根拠をあたえたとあります。
美濃部達吉は、東京帝国大学へ進み、卒業後、内務省勤務、ヨーロッパ留学を経て、東京帝国大学教授となっています。
1912年『憲法講話』にて、天皇機関説を発表し、天皇主権説を唱えた同大学教授の穂積八束・上杉慎吉らと対立します。
天皇機関説とは、国家が主権の主体で、天皇はその最高機関とする憲法学説です。
これに対し天皇主権説は、国家=天皇であり、神を祖先に持つ天皇が絶対的な主権を持つという考え方です。
なお天皇機関説は、美濃部達吉が考えたものではなく、ドイツの国家法人説に基づいて考えられたものです。
美濃部は学生時代、天皇機関説を提唱した一木喜徳郎に教えを受けており、天皇機関説はすでに存在した学説です。
そして天皇機関説は、天皇や政治家らにも受け入れられ、美濃部は貴族院議員となりました。
しかし、日本でナチス・ドイツへの関心が高まっていくと、天皇機関説は反ファシズムの考えとみなされるようになります。
これは天皇機関説の参考となった学説を唱えた人物がユダヤ人で、その著書が発売禁止の対象になったことも影響しています。
そして、貴族院において議員の菊池武夫が天皇機関説を非難する演説を行いました。
こうして天皇機関説と、美濃部達吉を排除しようとする運動がおこり、政治問題へと発展していきました。
このときの岡田内閣(首相・岡田啓介)は、「国体明徴声明」を出し、天皇機関説は異端の学説とされました。
美濃部達吉の著書は、発売禁止となり、美濃部が貴族院議員を辞職することで、事態は収束していきました。
これら一連の事件を天皇機関説事件(問題)といいます。
第二次世界大戦後は、民主化政策による憲法改正作業に参加し、枢密顧問官などに任じられ、活躍しました。
日本国憲法成立後も、多くの憲法に関する著書・論文を発表しています。
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加藤高明をわかりやすくー普通選挙法・治安維持法・憲政の常道
2018年11月23日
歴史で太字ではないけど知っておきたい人物
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w.sanbongi
加藤高明
かとうたかあき
1860年~1926年
教科書では、普通選挙法と治安維持法を制定した内閣として登場します。
加藤高明は、愛知県尾張の生まれで、東京大学法学部を首席で卒業後、三菱に入社しました。
そして三菱を発展させ、三菱財閥の基礎を確立した実業家・岩崎弥太郎の長女と結婚しています。
その後大隈重信の秘書などを務め、第4次伊藤内閣、第1次西園寺内閣、第3次桂内閣で外相を歴任しています。
3度の首相経験を持つ桂太郎が結成した立憲同志会に参加、桂太郎の死後は、トップである総裁を引き継いでいます。
第2次大隅内閣では再び外相となり、中国に対し二十一か条の要求を行っています。
一方立憲同志会は、中正会、公友倶楽部と合同で、憲政会(後の立憲民政党)を成立させ、加藤高明はその総裁となりました。
加藤高明の憲政会と高橋是清の立憲政友会、犬養毅の革新倶楽部(後に立憲政友会に吸収)は護憲三派と呼ばれました。
1924年、この護憲三派が、この時の首相・清浦奎吾(きようらけいご)の清浦内閣打倒をめざして運動を起こします。
これを第二次護憲運動といい、普通選挙の実施、貴族院改革、行政整理などを掲げた護憲三派が総選挙で勝利します。
憲政会が第一党となったため、加藤高明は東京大学出身者では初の内閣総理大臣となりました。
そして加藤内閣(護憲三派内閣)は、納税資格制限を撤廃し、25歳以上の男子に選挙権を与える普通選挙法を成立させました。
一方、普通選挙法と日ソ国交樹立による共産主義活動の活発化を見越して、治安維持法も同じ年に成立させています。
またこの加藤内閣から衆議院で多数の議席を占める政党が内閣を組織することになり、これを「憲政の常道」といいます。
ただし第1党が総辞職後、第2党に交代する形で行われたため、議院内閣制が制度化されたわけではありません。
つまりこのときは憲政会と立憲政友会が交互に政権を担当しました。
しかし憲政会と立憲政友会で内紛が起き、護憲三派は分裂し、加藤の憲政会による単独内閣となりました。
その翌年、加藤高明は肺炎を起こし、それが原因で病死しました。
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