カテゴリー: 歴史で太字ではないけど知っておきたい人物
原敬をわかりやすくー平民宰相・政党内閣・選挙法改正
原敬
はらたかし
(はらけいと呼ばれることも)
1856年~1921年
教科書では、本格的な政党内閣を組織し、選挙法を改正した人物として、登場します。
原敬は、当初、新聞社に勤めていましたが、のちに退社、その後政党の機関紙を書くようになり、政界とのつながりができます。
そして外務省に採用され、外務大臣・陸奥宗光(むつむねみつ)の引き立てにより、外務次官となっています。
しかし、第2次松方内閣で大隈重信が外相となると、外務省を辞めています。
原敬は大隈重信の考えとは合わず、最初の新聞社を辞めたのも、大隈派が新聞社に入ってきたためといわれています。
その後、原敬は大阪毎日新聞社に入社、翌年には社長となっています。
大隈重信がライバル視している存在でもある伊藤博文が、立憲政友会を組織すると、原はこれに誘われ、幹事長となりました。
そして立憲政友会の中心人物となり、伊藤博文、西園寺公望(きんもち)のあと、第3代立憲政友会総裁となっています。
米騒動で、寺内内閣が総辞職すると、原敬は、内閣総理大臣となり、原内閣が組閣されました。
原敬は、日本で初めて華族ではない首相であり、軍部・外務大臣以外は立憲政友会の党員で組閣された、最初の政党内閣でした。
原は、地方の利益を積極的に誘導し、政権基盤を拡大していこうとする積極政策をとっていきます。
教育の改善・交通通信の整備・産業および通商貿易の振興・国防の充実という四大政綱(せいこう)を掲げました。
また、選挙法改正を行い、納税額10円以上が得られた選挙権を、3円以上に引き下げました。
一方、「平民宰相(さいしょう」と呼ばれ、国民から人気を得た原敬でしたが、民衆が望んだ普通選挙法には否定的でした。
実際はその強い政治力で国を動かしており、汚職事件などにより政治腐敗が進行、そのイメージとは異なるところもあります。
そして、京都で開かれる立憲政友会の大会へ向かう東京駅で、駅の職員に刺殺(暗殺)されました。
暗殺事件の現場跡は、現在でも印がつけられて、わかるようになっています。
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吉野作造をわかりやすく-民本主義・大正デモクラシー
2018年11月8日
歴史で太字ではないけど知っておきたい人物
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w.sanbongi
吉野作造
よしのさくぞう
1878年~1933年
教科書では、民本主義を主張した人物として登場しますが、吉野作造の名前は太字ではありません。
吉野作造は、高校卒業後、東京帝国大学に進学し、さらに大学院へと進み、東大の教授となっています。
中国で、袁世凱(えんせいがい・中国の大総統)の息子の家庭教師をした経験もあります。
雑誌『中央公論』の編集長に頼まれ、いくつかの論説を掲載しました。
そして、1916年に「憲政の本義を説いて其有終の美を済(な)すの途を論ず」を発表し、民本主義を提唱しました。
そして『中央公論』はこの時期、大正デモクラシーの論壇の中心となっています。
民本主義とは、天皇主権のもと、民衆の政治参加を主張したものです。
主権が国民にある民主主義の考えとは異なるため、民本主義といいます。
具体的には、政策の決定は民衆の意向を反映したものでなければならないとし、政党内閣制と普通選挙の実現を目指しました。
なお、発表時には、吉野作造は、民主主義という危険な学説とは異なるものとして、民本主義という言葉を生み出しています。
しかし晩年は、民本主義ではなく、民主主義、デモクラシーと表現しています。
1918年には、自由主義者や新しい発想を持った学者らによる組織「黎明会(れいめいかい)」を結成しています。
また、東大生による思想運動団体「新人会」を結成、普通選挙運動や、労働運動に参加しました。
労働組合運動の中心となった鈴木文治(ぶんじ)設立の「友愛会」の支援もしています。
朝鮮や中国の民族主義にも理解を示した人物としても知られ、朝鮮独立運動や、孫文の辛亥革命を支持しています。
1923年には、関東大震災がおき、東京・横浜を中心に多くの被害が出ました。
このとき、朝鮮人が暴動を起こしたといううわさが流れ、これを住民が組織した自警団が殺害するという事件が起きています。
この朝鮮人殺害を吉野作造は、批判する論文も発表しています。
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