カテゴリー: 社会
太陰暦とはー歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい用語
太陰暦
たいいんれき
古代文明
教科書では、エジプト文明で太陽暦が作られ、メソポタミア文明で太陰暦が考え出されたとあります。
太陽暦は太字ですが、太陰暦は太字ではありません。
太陽暦(たいようれき)が太陽の動きを基準にする暦なのに対し、太陰暦は月の動きを基準にする暦です。
人類が、取り入れた暦では、最も古いものと考えられています。
古代の占星術(せんせいじゅつ)から、生まれたと考えられています。
占星術とは、星の動きから国家や社会、個人の運命を予知しようとすることです。
太陽暦が1年365日なのに対し、太陰暦は約354日になり、約11日のずれが生じます。
太陰暦で33年たつと、約11日×33年で363日、つまり約1年、太陽暦とずれが生じます。
よって、太陰暦で33歳でも、太陽暦では32歳になります。
また、このずれがおこることから、太陰暦では季節と月(1月、2月・・・)が合いません。
よって太陰暦を使用している国でも、農業など季節に影響を受ける仕事は、別に太陽暦のようなものを使用していたようです。
現在、太陰暦はイスラム圏で使用されており、イスラム暦と太陰暦はほぼ同意と考えていいかと思います。
ただし、上記のような理由から、宗教行事以外は主に太陽暦を使っているようです。
日本では、昔は太陰暦を利用していました。
しかし、1年11日のずれを調整するため、約3年に1回(11日×3年)うるう月を入れて、1年13か月の年が存在しました。
この調整したものは太陰太陽暦(たいいんたいようれき)といわれ、今でいう旧暦のことです。
江戸初期まで使用されていました。
明治になるとヨーロッパで主流だった太陽暦に変更し、現在に至ります。このとき1日24時間、週7日制も採用されました。
※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。
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唐とは―歴史で中学生が知っておきたい中国史
2017年10月21日
社会, 知っておきたい中国史
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w.sanbongi
唐
とう
李淵・李世民
日本:飛鳥~平安
唐も隋同様、日本と関係が深いうえに、約300年も続いた大帝国であることから、教科書の記述も多いです。
白村江の戦いで関係が悪化したときもありましたが、遣唐使は長きに渡り続けられます。
唐の作った法律(律令)を日本も参考にし、大宝律令(たいほうりつりょう)を作ることになります。
唐の建国者は隋の煬帝(ようだい)のいとこである李淵(りえん)です。
唐の基礎を作ったのは、その息子の第2代李世民(太宗)です。
李世民(りせいみん)のころの安定した政治を「貞観の治(じょうがんのち)」と言います。
第3代高宗のとき皇后であった則天武后(そくてんぶこう・武則天とも)が力を持ち、中国史上唯一の女帝になりました。
結果、数年だけ唐ではなくなりますが、則天武后が亡くなると高宗の息子である中宗(ちゅうそう)が即位し再び唐になります。
しかしそのときの皇后であった韋后(いこう)が、則天武后をまねて中宗を暗殺します。
再び政治は混乱しますが、玄宗がこれを鎮圧しました。
玄宗(げんそう)は外部に対して軍事力を強化し、政治も安定、このころの政治を「開元の治(かいげんのち)」と言います。
しかし、玄宗は世界三大悪女の1人と言われる楊貴妃(ようきひ)を溺愛します。
そして、楊貴妃の一族が独裁してしまう事態を作ってしまいました。
これに対し辺境警備をしていた安禄山(あんろくざん)らが反乱を起こしますが、これは失敗します(安史の乱)。
そして唐は一時盛り返しますが、続く農民を指導して起きた黄巣の乱(こうそうのらん)により唐は崩壊します。
この後、唐の衰退を感じた日本は遣唐使を廃止しています。
黄巣の乱の幹部の1人であった朱全忠(しゅぜんちゅう)が唐に裏切ったことにより、黄巣の乱は鎮圧されました。
その朱全忠が後梁(こうりょう)という国を建て、唐は滅亡することになります。
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