カテゴリー: 社会
徳川慶喜がしたことー歴史で中学生が覚えておきたい徳川将軍7
徳川慶喜
とくがわよしのぶ
第15代将軍
1837年~1913年
教科書では、大政奉還をした江戸幕府最後の将軍として登場します。
徳川慶喜は御三家の1つ水戸徳川家の生まれです。水戸徳川家は第2代徳川光圀(水戸黄門)が有名です。
御三卿の1つ一橋家を継いだため、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)という名前で登場するときもあります。
第14代将軍の後継ぎ問題の際にも、名前が出てきますが、このときは徳川家茂が将軍になっています。
このとき慶喜は、将軍後見職(しょうぐんこうけんしょく)として将軍の補佐役の任についています。
松平春嶽(まつだいらしゅんがく)と、参勤交代の短縮などを行います(文久の改革)。
徳川家茂が亡くなると、再び将軍にと名前が上がりますが、この時は拒否します。
約4か月拒否し続けましたが、まわりの強い説得により第15代将軍となります。
いろいろな改革を試みましたが、このころ徳川幕府は再生不可能なほど弱体化していました。
そして薩摩藩と長州藩が武力によって、徳川幕府を倒そうとしていると徳川慶喜は考えます。
このため土佐藩のすすめた大政奉還を行い、先に江戸幕府自体をなくしてしまいました。
このことは教科書にも記述されていますが、徳川慶喜は幕府に代わる新しい政権で、主導権を握ろうとしました。
しかし、薩摩藩・長州藩が朝廷を動かして、王政復古の大号令を出し、天皇を中心とする政府が作られました。
その後、旧幕府軍と新政府軍との間でおこった鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れます。
徳川慶喜は朝廷に従うことを示し、静岡にて謹慎(きんしん)しました。
明治時代になり、謹慎解除後も隠居(いんきょ)生活を送っていましたが、明治35年に、貴族院議員に就任しています。
その後再び隠居、大正2年まで生きました。
写真雑誌に投稿するほど写真が趣味で、ひ孫も現代で写真家として活躍しました。
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天武天皇とはー中学生が覚えておきたい天皇・上皇3
2017年10月25日
社会, 覚えておきたい天皇・上皇
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w.sanbongi
天武天皇
てんむてんのう
?年~686年
大海人皇子
教科書では、壬申の乱に勝って天皇となり、天皇の地位を高めた人物として紹介されています。
天武天皇は大海人皇子(おおあまのおうじ)といい、天智天皇(中大兄皇子)の弟です。
ただし、生年月日がわかっていないことや、天武天皇の方が年上という書物も存在するため、兄弟関係を疑う意見もあります。
新羅の皇族だった(つまりは日本人ではない)という意見もあります。
天智天皇は当初、弟である大海人皇子を次の天皇にと考えていました。
しかし、子どもの大友皇子(おおとものおうじ)が成長するにしたがって、考えが変わってきます。
そして、天智天皇が大友皇子を次期天皇にしたことで、兄弟の仲は悪くなりました。
そのような状況下で、天智天皇が亡くなりました。
こうして、大友皇子と大海人皇子が後継ぎをめぐって争い、壬申の乱(じんしんのらん)がおこります。
結果は、大海人皇子が地方の豪族などの協力を得て圧勝し、天武天皇になります。
大友皇子は敗れて自害、後に弘文天皇(こうぶんてんのう)と名づけられます。
しかし大友皇子は、実際には天皇としては即位していないと言われています。
天武天皇は八色の姓(やくさのかばね、はっしきのせい)と言われる、天皇中心の身分制度を作ました。
その身分制度は、8階の身分を作り、皇室と関係の深い人物を上位に置きました。
飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)という律令を編集、大宝律令(たいほうりつりょう)の制定まで施行されました。
この飛鳥浄御原令において、大王に代わり、道教の神、天皇大帝に由来する天皇号が採用されたと考えられています。
天武天皇は他にも、『古事記』『日本書紀』の編纂などもしています。
これらの事業は、ほとんどは完成を見ずに亡くなってしまったため、皇后が持統天皇となり引き継いでいくことになります。
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