カテゴリー: 歴史で太字ではないけど知っておきたい用語
雄藩をわかりやすくー薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩
雄藩
ゆうはん
江戸時代
雄藩とは、勢力の雄大な藩という意味で、幕末に活躍した薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩、越前藩、水戸藩などを指します。
明確にどの藩を雄藩と呼ぶかは、特に決まっていません。幕末、多くの人材を出した4つの雄藩は薩長土肥とも言われます。
薩摩藩(鹿児島藩)は、薩摩・大隅の2国を領有する藩で、外様大名の中では前田氏の加賀藩に次ぐ大きな藩でした。
幕末には、第11代藩主・島津斉彬が中央政治でも活躍、その弟・島津久光も公武合体の中心人物として、活躍しました。
徳川幕府打倒の中心的藩でもあり、西郷隆盛、大久保利通とのちに維新の三傑と呼ばれた人物を2人、出しています。
長州藩(萩藩)は、戦国時代の大名・毛利元就を祖とする藩ですが、その孫・毛利輝元が関ケ原の戦いに敗れ、縮小しました。
幕末には、藩主・毛利敬親(たかちか)が村田清風(せいふう)を登用し、財政を再建、また洋式兵術を採用しました。
毛利敬親自身も、討幕派として活躍、また木戸孝允(桂小五郎・維新の三傑の一人)、高杉晋作、伊藤博文を出しています。
土佐藩(高知藩)は、豊臣秀吉の部下だった山内一豊が、徳川家康の時代になると遠州掛川から移されて、治めた土地です。
幕末には、山内豊信(容堂)が藩政を改革、中央でも公武合体の中心人物の1人となり、大政奉還を実現しています。
坂本龍馬、後藤象二郎(しょうじろう)、板垣退助、岩崎弥太郎(やたろう)が土佐藩出身です。
肥前藩(佐賀藩)は、九州の戦国大名・龍造寺氏の家臣だった鍋島直茂がその領地を引き継いだのが始まりです。
幕末には、鍋島直正(なおまさ)が佐賀藩大砲製造所を作り、軍備の近代化を図りました。江藤新平、大隈重信を出しています。
越前藩(福井藩)は、徳川家康の次男・松平秀康(結城秀康)を始まりとします。
幕末には、藩主・松平慶永(よしなが・春嶽)が政事総裁職に任じられ重要な役割を果たしています。
水戸藩は、家康の11男・徳川頼房が始まりで、御三家のひとつですが、2代目・徳川光圀から尊王の意識を強く持っていました。
幕末には、藩主・徳川斉昭(なりあき)が幕政にも参加し、尊王攘夷論を主張しました。
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安政の大獄をわかりやすくー井伊直弼・一橋慶喜・吉田松陰
2019年4月8日
歴史で太字ではないけど知っておきたい用語
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w.sanbongi
安政の大獄
あんせいのたいごく
江戸時代
安政の大獄とは、大老・井伊直弼が幕府の政策に反対する人たちを処罰し、その力を押さえようとした事件です。
1858年、1859年、元号でいう安政5年、6年に行われたため、安政の大獄と言われます。
安政の大獄は、江戸幕府第13代将軍・徳川家定に後継ぎがいないためにおこった「将軍継嗣問題」からきています。
このとき次の将軍に、一橋慶喜(よしのぶ)を推す一橋派と、徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派とで対立が起きます。
この南紀派の筆頭が彦根藩主で、譜代大名の中でも最も力を持っていた井伊氏の井伊直弼でした。
井伊直弼は、最高職である大老に就任し、強引に徳川慶福(後の家茂)を将軍の後継ぎにします。
これに反対した一橋派の徳川斉昭(なりあき・慶喜の父)や、福井藩主・松平慶永(春嶽)は、直弼を問い詰めようとします。
しかし、直弼は逆に彼らを蟄居(ちっきょ)・謹慎(きんしん)処分にしています。
一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は兵を動かしこれに反対しようとしますが、急死してしまいます。
こうしてこの動きに関わった人たちも、処罰の対象となりました。西郷隆盛もこの事件の影響で、島流しになっています。
この事件で亡くなった人物は、中学の教科書にも載っている吉田松陰(しょういん)が最も知られています。
多くの討幕派の人物を輩出した松下村塾(しょうかそんじゅく)を開いた人物で、死刑となっています。
他に松平慶永の家臣だった橋本左内(さない)も処刑、若狭小浜藩士・梅田雲浜(うんぴん)は獄中で病死しました。
一橋慶喜をはじめ、松平慶永・伊達宗城・山内豊信(容堂)ら一橋派の藩主クラスは謹慎処分となりました。
他にも朝廷の大臣クラスや、前関白なども処分の対象となり、その数は100人を超えました。
しかし、1860年、安政の大獄に怒った水戸藩士らによって、井伊直弼は殺害されます(桜田門外の変)。
これにより事態が収束、謹慎中だった一橋慶喜や松平慶永らが復帰し、公武合体へと進んでいきました。
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