カテゴリー: 歴史で知っておきたい戦争
壇の浦の戦いをわかりやすくー源平最後の合戦
壇の浦の戦い
だんのうらのたたかい
平安時代
1185年
壇の浦の戦いは、今の山口県下関市にある壇の浦で起こった源平の争乱(治承・寿永の乱とも)、最後の合戦です。
源義経を主人公にしたドラマなどでも、描かれる戦いですが、実際に戦いの模様を具体的に残した資料は存在しません。
鎌倉時代の最も重要な史料は『吾妻鏡(あづまかがみ』ですが、これにはごく簡単にしか触れられていません。
よって多くは、軍記物語の『平家物語』『源平盛衰記(じょうすいき)』に書かれたことがベースとなっています。
このとき平氏は、源義仲(木曽義仲)に敗れ、安徳天皇とともに京を追われていました。
その後、平氏は勢力を回復し、福原に集結しますが、一の谷の戦い、屋島の戦いで敗れ、海に逃げました。
平氏政権をつくった平清盛はすでに亡くなっており、平氏の総大将は、清盛の三男・平宗盛(むねもり)でした。
これに対し源氏は、陸軍を源頼朝の弟・源範頼(のりより)、水軍をこれも源頼朝の弟・源義経が率いていました。
水軍の大将・源義経は、近くの有力な水軍を味方につけ、船の数では、平氏を上回っていました。
陸軍の大将・源範頼は、平氏の逃げ道をふさぎ、陸から弓を使って、水軍を援護しました。
ただ平氏はもともと船での戦いを得意としていたため、慣れない源氏は苦戦し、平氏が優勢で戦いは進みました。
しかし、潮の流れが変わると、源氏は猛攻撃を仕掛け、結果、平氏は大敗します。
なお潮の流れの変化によって源氏が優勢になったことは、『吾妻鏡』『平家物語』にはありません。
よってこの説に関しては、現在では否定的な意見もあります。
こうして平氏は、安徳天皇とともに海に身を投げ、滅びました。ただし、全員が亡くなったわけではありません。
大将の平宗盛も海に身を投げたものの、死ねずに引き上げられ、捕虜となり、鎌倉に送られ死刑となっています。
源義経は京に戻り、後白河法皇から恩賞を得ますが、このことが源頼朝との対立を生むこととなりました。
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承久の乱をわかりやすくー後鳥羽上皇VS北条義時
2018年10月15日
歴史で知っておきたい戦争
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w.sanbongi
承久の乱
じょうきゅうのらん
鎌倉時代
1221年
承久の乱は、朝廷と幕府という対立構造で、この2つが武力を使って戦った初めての戦いです。
当時の鎌倉幕府の将軍は第3代・源実朝(さねとも)でしたが、第2代将軍・源頼家の子・公暁(くぎょう)に暗殺されました。
これにより、幕府の政治は初代将軍・源頼朝の妻・北条政子とその弟で執権の北条義時が行うようになります。
幕府は源氏の将軍が絶えてしまったため、次の将軍を皇族から迎えようとします(皇族将軍)。
しかし、このとき院政を行っていた後鳥羽上皇との交渉に失敗、よって幕府は摂関家から将軍を迎えました(摂家将軍)。
この出来事により、後鳥羽上皇と北条義時の関係が悪化します。
もともと朝廷こそが政治の中心と考えていた後鳥羽上皇は、北条義時を討つため、兵を挙げました。
後鳥羽上皇は、院を守る武士である北面の武士の加え、新たに西面の武士を設置するなど武力の増強をしてきました。
さらに上皇の名のもと、義時追討の命令を当時の有力者に出し、これにより多くの武士が朝廷に味方すると考えていました。
これに対し幕府側は、北条政子がこの動揺をおさめることに成功し、幕府有利と見た鎌倉武士は、北条義時に味方しました。
幕府側は、北条義時の子・北条泰時と義時の弟・北条時房を中心にして、三方向から京を攻めました。
鎌倉武士が朝廷に味方すると考えていた後鳥羽上皇側は、後手に回り、大敗しました。
公家も戦いに加え、宇治川で最終決戦を挑み、必死に防衛しましたが、これにも後鳥羽上皇側は敗れました。
こうして京を占領した北条泰時・時房は、六波羅に残り、朝廷を監視する六波羅探題となりました。
後鳥羽上皇は、隠岐に島流しとなり、その皇子・順徳天皇(上皇)は佐渡、土御門天皇(上皇)は土佐へ流されました。
この出来事によって、朝廷は大きく力を落とすこととなり、あらゆることを幕府の了承のもと執り行うようになっていきます。
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