後鳥羽上皇とはー中学生が覚えておきたい天皇・上皇10


後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

 

ごとばじょうこう

1180年~1239年

承久の乱

 

教科書では、鎌倉幕府を倒そうと承久の乱をおこしたが敗れ、隠岐に流されたと紹介されています。

 

後鳥羽天皇は、高倉天皇の子つまり後白河法皇の孫にあたり、4歳で天皇に即位しています。

このとき、平家が安徳天皇といっしょに天皇の証である三種の神器を持ち去っていたため、神器なしで即位しました。

このことを後鳥羽天皇はずっと気にし続け、その後の後鳥羽天皇の行動に影響を与えたとも考えられています。

後白河法皇が生きている間は、法皇の院政、その死後は関白の九条兼実(くじょうかねざね)が実権を握っていました。

その後、九条兼実の勢力は朝廷を追われることになったため、後鳥羽上皇となり、院政を行うようになりました。

 

後鳥羽上皇は文武両道の人物で、武芸にも優れた能力を持ち、朝廷の軍事力も強化しています。

鎌倉幕府の3代将軍源実朝とは、うまく関係を築いていきますが、その実朝が暗殺されてしまいます。

そして将軍の後継問題などで、朝廷と幕府の関係が悪化していきます。

こうして後鳥羽上皇は、執権の北条義時を討つために承久の乱をおこします。

当初は、朝廷側有利と思われました。

しかし、幕府側は源頼朝の妻で、北条義時の姉である北条政子がその動揺を鎮めたと言われています。

朝廷側は思ったほど味方を得られず敗北、後鳥羽上皇は隠岐に流され、18年後にそのまま隠岐で亡くなります。

この事件後、朝廷の力は急速に弱まっていき、北条氏による執権政治が100年以上続くことになります。

 

後鳥羽上皇は歌人としても有名で、百人一首にも99番目に歌が選ばれています。

新古今和歌集』の作成を命じており、その編集にも深く関わっていたと考えられています。

隠岐に流された後も、『新古今和歌集』を再編集をしており、これは「隠岐本新古今和歌集」といいます。

天皇家の菊の御紋は後鳥羽上皇が菊を好んで愛用したことが、始まりと言われています。

 

 

中学生が覚えておきたい天皇・上皇一覧

 

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プロフィール

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愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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