藤原純友とはー海賊を率いた元役人


藤原純友

藤原純友

 

ふじわらのすみとも

 ? ~941年

教科書は太字ではない

 

中学の教科書では、10世紀の中ごろ、瀬戸内海で藤原純友が、朝廷の政治に不満を感じて、大きな反乱を起こしたとあります。

 

当時、瀬戸内海では海賊が出現し、困らせていました。

その取り締まりを行うために、藤原純友が伊予掾(いよのじょう)として瀬戸内海にいきました。

しかし、任期が終わっても京には帰らず、そのまま瀬戸内海に残りました。

そして海賊を束ねる存在となり、今の愛媛県の日振島(ひぶりじま)を根拠にして、瀬戸内海全域を支配しました。

これに対し朝廷は、藤原純友に官位を授けて懐柔をはかりますが、失敗します。

939年に反乱を起こし、大宰府に侵入、焼き討ちしました。

 

なぜ、藤原純友が海賊を率いて反乱を起こしたのか、はっきりしたことはわかっていません。

海賊退治に行ったが、それに対する恩賞がなかったためではという説が有力です。

また、平将門同様、周りの状況により、やむを得ず反乱を起こすことになったとも考えられています。

なお、同時期に平将門も反乱を起こしているため、これらの反乱を合わせて承平・天慶の乱とも言います。

そのため、2人で共謀して、平将門は先祖が皇族だったため新皇に、藤原純友は関白になろうとしたとも言われています。

ただこれは実際に2人が顔を合わせることは不可能なため、史実ではないとされています。

 

朝廷は、小野好古(おののよしふる)を追捕使(ついぶし)とし、源経基(つねもと)らと討伐に向かわせています。

追捕使とは、諸国の反乱を平定するために置かれた官です。

初めは臨時でしたが、承平・天慶の乱後、常に置かれる役職となりました。

源経基は、平将門の乱にも関係しており、清和源氏の祖で、武士の棟梁でした。

941年博多湾の戦いで純友率いる海賊団は壊滅しました。純友がどのようにして亡くなったかは、詳しくはわかっていません。

 

 

※教科書とは、東京書籍発行の「新しい社会」を指します。

 

スポンサーリンク

 

 

 

スポンサーリンク








プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

東三河の方で、教室に興味のある方はこちらのお問い合わせフォームより、お問い合わせください。塾ではない形で指導を希望される方も、一度ご相談ください。あなたから新しい指導の形が見つかるかもしれません。

 

友だち追加