カテゴリー: 社会
江戸時代1ー歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい用語
江戸時代1ー歴史で中学生が太字ではないけど知っておきたい用語
※青字はクリックすると、別ページに詳しい説明があります。
親藩 徳川一門の大名。最高位は尾張家・紀伊家・水戸家で御三家と呼ばれた。
譜代大名 関ヶ原の戦い以前から徳川氏に従っていた大名。石高は少ないが、要職につける。最大は井伊氏の彦根藩。
外様大名 関ヶ原の戦い以後、徳川氏に従った大名。石高は大きいが、要職にはつけず。最大は前田氏の加賀藩。
老中 常置の職では幕府の最高職(大老が最高職だが非常時のみ設置)。当初は、年寄といった。月番制(1か月交代)。
禁中並公家諸法度 幕府が出した朝廷・公家の統制法。金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草。
五人組 5戸1組を基準とし、五人組帳に記載。年貢の連帯責任、犯罪防止を目的とした。
禁教令 キリスト教禁止令。2代将軍・徳川秀忠のときに出され、3代将軍・徳川家光はこれをさらに強化する。
絵踏 キリシタンを検出するため、聖画像やキリスト・マリア像を踏ませる行為。像は踏絵と呼ばれる。
宗門改 信仰を調査すること。キリスト教の禁止を徹底するため、帳簿(宗門改帳)をつくった。のちに戸籍の役割も。
対馬藩 長崎県・対馬を治めていた藩。朝鮮通信使を迎えるなど、日朝外交の大事な役割を果たす。
薩摩藩 初代藩主・島津家久は琉球を征服、徳川将軍の代替わりごとに、薩摩藩が監督のもと、琉球使節が送られた。
松前藩 蝦夷地南岸にいた蠣崎氏が、徳川家康より、蝦夷地支配を認められ、松前氏を名乗る。
備中ぐわ 田んぼをおこしたり、耕す際に使用するくわ。刃の部分が、3~4本にわかれている。
千歯こき 脱穀に使う道具。それまで使用されていたこき箸に代わり使用されるようになり、能率は倍増した。
スポンサーリンク
応仁の乱をわかりやすくー細川勝元VS山名宗全
2018年11月6日
歴史で知っておきたい戦争
No Comments
w.sanbongi
応仁の乱
おうにんのらん
1467年~1477年
室町時代
応仁の乱は、日本史の中でも指折りの大乱ですが、いくつかの対立が複雑に絡んで、その中身はわかりにくいです。
なぜ11年も続き、そこまでの大乱になったかは、さまざまな解釈がなされています。
また当時の人たちも、なぜこのような大乱になってしまったかわからない、という発言をしている文献も発見されています。
室町幕府第8代将軍・足利義政は、後継ぎとなる男の子が生まれなかったため、弟の足利義視に後を継がせようとします。
しかし、その後、正室・日野富子との間に男の子(のちの足利義尚)が誕生、日野富子は義尚を将軍にしようと考えます。
足利義視は、管領の細川勝元が支持していたため、富子は、有力な守護大名だった山名持豊(宗全)を頼ります。
こうして、細川勝元と山名持豊が対立、全国の守護大名も細川方、山名方と2つに分かれる事態となりました。
そして畠山氏の畠山義就(よしなり)が山名持豊らの支援を受け、大軍を率いて足利義政に相続を認めるようせまりました。
足利義政はこれを認めたため、管領となっていた畠山氏の畠山政長は反発し辞任しています。
将軍邸は山名軍に占領されたため、これに対抗し、細川勝元も自らの領地の兵を京都へ集めました。
このとき細川軍が東にいたため東軍、山名軍が西にいたため西軍と呼ばれます。
足利義政は戦争を中止するよう命じながらも、細川勝元の要請に従い、足利義視を支持します。
しかし足利義視が西軍への総攻撃ののち陣に戻ると、足利義政は足利義尚を将軍にしようとする動きを見せました。
さらに細川勝元も義視を将軍にしようとは動かなかったため、義視は比叡山に逃げています。
この義視を西軍が迎え入れるという状況になり、つまり義視は東軍から西軍へ移り、事態はさらに複雑化します。
ただこの一連の出来事は、細川勝元が西軍を崩壊させるために、あえて行ったとも考えられています。
その後、対立はこう着状態となり、このとき将軍の権威も大きく失墜していたため、守護大名も戦う意義を失っていました。
そして細川勝元・山名持豊が亡くなり、義政も義尚に将軍職を譲り、応仁の乱は、決着を見ないまま終息していきました。
スポンサーリンク