島津氏とはー島津貴久・島津義久・島津義弘


島津氏

島津氏

 

しまづし

戦国時代

 

 

教科書では、九州を統一しようとしていた島津氏を、全国統一を目指した豊臣秀吉が降伏させたとあります。

 

島津氏は、鎌倉時代に島津忠久が薩摩・大隅・日向の3国の守護に任じられたことが始まりです。

戦国時代には、第15代・島津貴久が実父・島津忠良(日新斎)とともに戦国大名としての地位を確立させました。

この島津貴久はフランシスコ・ザビエルとも会っており、また戦争で初めて、鉄砲を使った戦国大名といわれています。

その子第16代・島津義久の時代には、九州は3つの戦国大名によって争われたため、「九州三国志」ともいわれます。

3つの1つは、キリシタン大名でも知られる大友氏の大友宗麟で、耳川の戦いで島津氏はこれに勝利しています。

もう1つは、「肥前の熊」と言われた龍造寺氏の龍造寺隆信で、沖田畷の戦いで島津氏はこれを打ち取っています。

こうして九州統一間近の島津氏でしたが、大友宗麟が豊臣秀吉に助けを求め、秀吉による九州征伐が行われました。

これに敗れた島津義久は、秀吉に降伏し、薩摩1国を領地とすることになりました。

秀吉による朝鮮出兵でも活躍、義久の弟・島津義弘はその猛将ぶりから「鬼島津」と言われました。

 

秀吉死後に起こった関ヶ原の戦いでは、島津義弘が石田三成側の西軍で参加、最後まで善戦したことで名を知られます。

徳川家康は島津征伐を行おうとしましたが、まだ島津家は薩摩に兵力を温存していたため、結果処分ナシとしています。

家康は島津氏を滅ぼさなかったことを、最後まで悔いていたともいわれています。

この島津氏の薩摩藩と、西軍大将だった毛利氏の長州藩が、約270年後、討幕の中心となっていきます。

 

江戸時代、薩摩藩の藩主となった島津氏は、島津家久の代に琉球王国を服従させています。

幕末には、第28代・島津斉彬が中央政界でも活躍、その弟・島津久光公武合体の中心となりました。

昭和天皇の皇后は、第29代・島津茂久(忠義)の娘で、島津氏は現在の皇室とも深い関係にあります。

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

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