カテゴリー: 覚えておきたい天皇・上皇
聖武天皇とはー中学生が覚えておきたい天皇・上皇5
聖武天皇
しょうむてんのう
701年~756年
東大寺の大仏を造る
教科書では光明皇后とともに仏教の力に頼って、国家を守ろうと考えたと紹介されています。
聖武天皇は大宝律令を制定した文武天皇(もんむてんのう)の子で、首皇子(おびとおうじ)といいました。
このころは藤原氏の力が強く、中臣(藤原)鎌足の子の藤原不比等(ふじわらのふひと)が大きな力を持っていました。
聖武天皇の皇后である光明皇后(こうみょうこうごう)は不比等の子、つまり鎌足の孫にあたります。
聖武天皇の母親も不比等の娘で、つまり母親と奥さんが姉妹ということになります。
藤原不比等死後は、天武天皇の孫にあたる長屋王(ながやのおう)が力を持ちます。
しかし長屋王は、後に自害しています(長屋王の変)。
長屋王の邸宅は1988年に発掘され、教科書にもその豪邸が載っています。
長屋王の変ののち、光明皇后が即位しますが、このとき初めて皇族出身でない人物が皇后になりました。
その後は、光明皇后の兄の橘諸兄(たちばなのもろえ)が大臣となり政権を握ります。
これに対し、藤原一族の藤原広嗣(ひろつぐ)が反乱を起こします。
この政治的不安から、聖武天皇は遷都(せんと・都をうつすこと)を繰り返します。
さらに聖武天皇の時代は、食料不足、地震、伝染病など多くのトラブルに巻き込まれた時代でした。
このような背景のもと、聖武天皇はそのあらゆる不安をしずめるために、仏教の力に頼りました。
また教科書ではわかりにくいですが、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)も聖武天皇のとき、出されたものです。
国分寺建立の詔や大仏造立の詔を出し、さらには総国分寺の東大寺をつくり、仏教国家を具体的な形にしていきます。
しかし、聖武天皇は東大寺の大仏が完成する前に出家してしまいました。
天皇の位は、娘である孝謙天皇(こうけんてんのう)に譲っています。
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持統天皇とはー中学生が覚えておきたい天皇・上皇4
2017年11月1日
社会, 覚えておきたい天皇・上皇
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w.sanbongi
持統天皇
じとうてんのう
645年~702年
天武天皇の皇后
教科書では、藤原京を造るなど律令制度を実施する準備を整えた人物として、紹介されています。
持統天皇は、天武天皇の皇后(こうごう、妻、奥さん)で、天智天皇(中大兄皇子)の娘です。
天武天皇は天智天皇の弟なので、おじとめいの夫婦になります。
当時は近親者で結婚することはよくあることで、天皇家ではむしろその血を守るために、必要なこととされていました。
ただ天智天皇は娘を4人も、天武天皇に嫁がせています。
そのことが、天武天皇と兄弟ではないという意見の一因にもなっています。
壬申の乱に勝利した天武天皇は大臣を置かず、妻であるのちの持統天皇と2人で政治を行いました。
天武天皇が亡くなった後は、2人の子供である草壁皇子(くさかべおうじ)が天皇に即位する予定でした。
ただ、まだ若かったため、天皇不在の時期がしばらく続きました。
そして、草壁皇子が先に亡くなってしまいます。
このため草壁皇子の子、つまり持統天皇の孫が成長するまでのつなぎとして自ら即位し、持統天皇になりました。
即位後は、天武天皇の理想を実現させていきました。藤原京(ふじわらきょう)もその一つです。
孫に天皇を譲った後も初の太上天皇(上皇)として、天皇と共に政治を行いました。
天武天皇が編集した飛鳥浄御原令に基づいて、庚寅年籍(こういんねんじゃく)という戸籍を作らせています。
大宝律令は孫の文武天皇(もんむてんのう)の時代に作られましたが、持統上皇もこれに関わっていたと言われています。
また、このころから「日本」の国号が、用いられるようになったと言われています。
百人一首の句「春過ぎて 夏来にけらし しろたへの 衣ほすてふ 天の香具山」でも有名です。
天皇で初めて火葬された人物でもあります。
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