カテゴリー: 覚えておきたい天皇・上皇


持統天皇とはー中学生が覚えておきたい天皇・上皇4


持統天皇

持統天皇

 

じとうてんのう

645年~702年

天武天皇の皇后

 

教科書では、藤原京を造るなど律令制度を実施する準備を整えた人物として、紹介されています。

 

持統天皇は、天武天皇の皇后(こうごう、妻、奥さん)で、天智天皇中大兄皇子)の娘です。

天武天皇は天智天皇の弟なので、おじとめいの夫婦になります。

当時は近親者で結婚することはよくあることで、天皇家ではむしろその血を守るために、必要なこととされていました。

ただ天智天皇は娘を4人も、天武天皇に嫁がせています。

そのことが、天武天皇と兄弟ではないという意見の一因にもなっています。

 

壬申の乱に勝利した天武天皇は大臣を置かず、妻であるのちの持統天皇と2人で政治を行いました。

天武天皇が亡くなった後は、2人の子供である草壁皇子(くさかべおうじ)が天皇に即位する予定でした。

ただ、まだ若かったため、天皇不在の時期がしばらく続きました。

そして、草壁皇子が先に亡くなってしまいます。

このため草壁皇子の子、つまり持統天皇の孫が成長するまでのつなぎとして自ら即位し、持統天皇になりました。

 

即位後は、天武天皇の理想を実現させていきました。藤原京(ふじわらきょう)もその一つです。

孫に天皇を譲った後も初の太上天皇(上皇)として、天皇と共に政治を行いました。

天武天皇が編集した飛鳥浄御原令に基づいて、庚寅年籍(こういんねんじゃく)という戸籍を作らせています。

大宝律令は孫の文武天皇(もんむてんのう)の時代に作られましたが、持統上皇もこれに関わっていたと言われています。

また、このころから「日本」の国号が、用いられるようになったと言われています。

百人一首の句「春過ぎて 夏来にけらし しろたへの 衣ほすてふ 天の香具山」でも有名です。

天皇で初めて火葬された人物でもあります。

 

 

中学生が覚えておきたい天皇・上皇一覧

 

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聖武天皇とはー中学生が覚えておきたい天皇・上皇5


聖武天皇

聖武天皇

 

しょうむてんのう

701年~756年

東大寺の大仏を造る

 

教科書では光明皇后とともに仏教の力に頼って、国家を守ろうと考えたと紹介されています。

 

聖武天皇は大宝律令を制定した文武天皇(もんむてんのう)の子で、首皇子(おびとおうじ)といいました。

このころは藤原氏の力が強く、中臣(藤原)鎌足の子の藤原不比等(ふじわらのふひと)が大きな力を持っていました。

聖武天皇の皇后である光明皇后(こうみょうこうごう)は不比等の子、つまり鎌足の孫にあたります。

聖武天皇の母親も不比等の娘で、つまり母親と奥さんが姉妹ということになります。

藤原不比等死後は、天武天皇の孫にあたる長屋王(ながやのおう)が力を持ちます。

しかし長屋王は、後に自害しています(長屋王の変)。

長屋王の邸宅は1988年に発掘され、教科書にもその豪邸が載っています。

長屋王の変ののち、光明皇后が即位しますが、このとき初めて皇族出身でない人物が皇后になりました。

 

その後は、光明皇后の兄の橘諸兄(たちばなのもろえ)が大臣となり政権を握ります。

これに対し、藤原一族の藤原広嗣(ひろつぐ)が反乱を起こします。

この政治的不安から、聖武天皇は遷都(せんと・都をうつすこと)を繰り返します。

さらに聖武天皇の時代は、食料不足、地震、伝染病など多くのトラブルに巻き込まれた時代でした。

このような背景のもと、聖武天皇はそのあらゆる不安をしずめるために、仏教の力に頼りました。

また教科書ではわかりにくいですが、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)も聖武天皇のとき、出されたものです。

 

国分寺建立の詔大仏造立の詔を出し、さらには総国分寺の東大寺をつくり、仏教国家を具体的な形にしていきます。

しかし、聖武天皇は東大寺の大仏が完成する前に出家してしまいました。

天皇の位は、娘である孝謙天皇(こうけんてんのう)に譲っています。

 

 

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プロフィール

管理者:DN

愛知県豊橋市三本木町の某個別指導塾・塾長です。

愛知県田原市生まれ、豊橋市育ち。

文学部史学科卒のため、歴史ネタが多くなります。

主に小中学生に指導もしています。

東三河の方で、教室に興味のある方はこちらのお問い合わせフォームより、お問い合わせください。塾ではない形で指導を希望される方も、一度ご相談ください。あなたから新しい指導の形が見つかるかもしれません。

 

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