カテゴリー: 覚えておきたい天皇・上皇
後三条天皇とはー中学生が覚えておきたい天皇・上皇6
後三条天皇
ごさんじょうてんのう
1034年~1073年
脱・藤原氏
教科書では、藤原氏と関係がうすい天皇で、荘園の管理を強めるなどの政治改革を行った人物と紹介されています。
後三条天皇は、教科書にあくまで藤原氏と関係が薄いうすいとあるように、藤原氏とは無関係ではありません。
後三条天皇の母親の禎子内親王(ていしないしんのう)は、藤原道長の孫にあたります。
禎子内親王の母親は道長の娘でも、嫁いだ家で生まれた子はもう藤原氏ではありません。
すでに藤原道長も亡くなっています。
藤原氏は娘を天皇のきさきにし、その子を次の天皇に立てることで実権を握ってきました。
しかし、後三条天皇はその法則に当てはまらないことから、天皇候補としてはそれほど高い位置にいませんでした。
そして、皇子と天皇があいついで亡くなっため、後三条天皇が天皇に即位することになりました。
もともと天皇になる予定ではなかったうえに、母親はそのときの関白である藤原頼通と仲がよくありませんでした。
そのような状況から、後三条天皇は藤原氏の摂関政治とは一線を置いた政治を行うようになりました。
藤原氏以外の人物を採用したり、後三条天皇自ら政治を行いました。
中でも有名なのが延久の荘園整理令と記録荘園券契所(記録所)で、荘園の増加を防止、縮小しました。
記録荘園券契所は荘園整理令を実施するための役所です。職員には反摂関家の人物が採用されました。
これは藤原氏の荘園にも及び、藤原頼通の荘園も一部整理されています。
これに対し、藤原氏は対抗策がなく、徐々に衰退していきます。
他にも公式な枡(ます)「宣旨枡(せんじます)」を制定し、これは鎌倉時代まで使われました。
後三条天皇は病気が原因で、息子に天皇の位を譲りますが、その後40歳で亡くなりました。
その息子が白河天皇で、父の遺志を継いで、院政を行うようになります。
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桓武天皇とはー中学生が覚えておきたい天皇・上皇6
2017年11月15日
社会, 覚えておきたい天皇・上皇
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w.sanbongi
桓武天皇
かんむてんのう
737年~806年
平安京へ遷都する
教科書では、政治の混乱を新しい都で立て直そうとし、長岡京、平安京と都をうつした人物として紹介されています。
桓武天皇は教科書にあるように政治の混乱の中、天皇になっています。
桓武天皇の母親は、身分の低い百済系の渡来人の血筋でした。
百済(くだら・ひゃくさい)はかなり前に滅亡、日本に移り住んだ人がたくさんいました。
さらに代々続いていた天武天皇の血を、引いていない人物でもありました。
よってもともとは天皇になる位置にはいなかったのですが、他の天皇候補が誰もいなくなったので、皇太子になりました。
これによって天武天皇の血筋が途絶え、この後は天智天皇の系統が現代まで続きます。
聖武天皇が仏教に頼った政治を行って以降、仏教勢力の力が増しました。
桓武天皇は仏教と政治を切り離すために、平城京から離れる、つまり遷都(せんと)を実行しました。
最初は長岡京に都をうつしましたが、その造営を任された藤原種継(たねつぐ)が射殺される事件が起こります。
さらに、この事件が原因で皇太子である早良親王(さわら)が廃位され、亡くなるなどの事件にまで発展しました。
よって再度794年に都をうつしました。この都が平安京です。この出来事を平安遷都といいます。
坂上田村麻呂を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)にしたのも、桓武天皇です。
坂上田村麻呂も、百済から渡来した人の子孫と言われています。
桓武天皇のとき、最澄(さいちょう)と空海(くうかい)が遣唐使として中国に行き、仏教の新しい教えを日本に伝えています。
その他にも勘解由使(かげゆし)を設置し、国司交代の不正を防ぎました。
健児の制(こんでい)を導入し、農民を兵にするのではなく、志願兵を採用しました。
このようにさまざまな政治改革を行い、そして天皇のまま、70歳で亡くなりました。
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